インターネットが安くなります!工事費無料です!という話には気をつけろ

自分の友達が遭った詐欺について書いておきます。

お使いのインターネット代が安くなります

2018年11月ごろ、とある営業電話が掛かってきた。「お使いのインターネット代が安くなります。今なら工事費無料なので~」普段はそのような営業電話は断っていたが、その時だけはその甘い言葉に乗ってしまったそうだ。

彼は接骨院を営んでおり、事務所でADSLを使用していた。インターネットが安くなるというのは光コラボレーションの話だとは思うのだが、ADSLを使っているけど大丈夫かと伝えても先方の営業は「ほぼ同じ月額で光回線にできます。工事費無料なので」と言っていた。

無料のはずの工事費が請求された

彼は言われるがまま契約をして、後日、下請け業者がインターネット工事とルーターの設定に来た。そのとき代金は請求される事は無く、本当に無料だったと安堵したものの、約1ヶ月後にNTTファイナンスから約2万円の工事費の請求が来た。

NTTに問い合わせるもたらい回し

彼は話が違うと言って、業者に電話を掛けてその旨を伝えたところ、最終的に返金するという旨の返事を貰い、口座番号を教えたものの一向に入金されない。

NTTの方にクレームの電話を入れると、「料金の事はNTTファイナンスへ」と言われ、NTTファイナンスに電話をすると、「契約の事は下請けに」と言われ、たらい回しにされる。

NTT「お客さんと下請けとの間の問題なので」

最終的にNTTに電話をして「お宅の下請けがそのような詐欺まがいの事をしているのだから、お宅には責任は一切無いのですか」と聞いたところ、「お客さんと下請けとの間の問題なので、当方には責任はありません。申し訳ありません」の一点張り。そんなこんなしている間にインターネットと電話を料金未納で止められた。NTTは「このままですと電話番号を失うことになりますので料金を払ったほうがよろしいかと思います」と足元を見て言う。彼は仕事で電話を使っているため、電話番号が無くなったら大損害である。事案が発生しているのだからこの件は保留にできないか、失効まで猶予できないかと聞いてみたがそれはできないようだ。

現在も争い中

そんなこんなで彼は「経済合理性を考えると泣き寝入りの方がお得だが、それでは奴らの思うつぼ」と少々ムキになって弁護士を入れる事を視野に入れて争っています。

同じような事案が無いかググって見たのですが、そのような内容の記事がヒットするものの十中八九が光コラボレーションのアフィリエイト記事で驚きました。本当に最近のインターネットはアフィリエイトで埋め尽くされていて、知りたい情報に辿りつきづらいですね。

そんなアフィリエイト記事に埋もれて総務省による「光コラボレーションモデル不適切な電話勧誘にご注意ください!」と、NTTのHPには「NTT東日本をかたった強引なセールスにご注意ください(電話料金・基本料金)」という記事が公開されています。彼が遭った詐欺はそれほどえげつないものではありませんが、上記リンクの事案を読んでみると結構巧妙なものが見受けられます。なによりこのような資料や記事が作成されるほど、光コラボによる詐欺は流行っているようです。

皆さんもお気をつけ下さい。勧誘電話の言われるがまま契約するのではなく、自分からしっかりと調べて契約しましょう。

WordPressの新エディタを使い始めようと思ったが「公開に失敗しました」

今までClassic Editorをインストールすることで新エディタGutenbergを遠ざけていましたが、サポートが2022年までなので、そろそろ新エディタにも慣れておくかと思いGutenbergを使おうとしましたが、記事を一通り書いて公開をポチっと押すと「公開に失敗しました」という赤い帯のエラーが表示されます。

何度押しても同じ表示が出る。下書きを押しても、同じく「公開に失敗しました」で下書きすら保存されない。

先ほどダウンロードした5.1.1の最新版だというのに、このような状態なのでこれは”仕様”ということなのだろうか。。ググって見るとサジェストの段階でいくつか同じ症状と思われる検索ワードが出てきた。ああ俺だけじゃないんだと安心しながらも、このままでは全く記事を公開できないので、またClassic Editorを有効化しました。

Gutenbergの初期の初期バージョンでは使えていたので、多分簡単なところで引っかかってるのだとは思いますが、原因の検証は面倒なのでやりません。2022年までClassic Editorで粘ります。それまでにもっと革新的なエディタが生まれてるでしょう。多分。。

ガソリンは昼より早朝に買うほうが得かもしれない

日本では重量ではなく体積(リッター)×値段でガソリンを販売しているため、同じリッター数を買っても暑い日は量が少なく、寒い日は量が多くなる。そのため、猛暑日、炎天下の中ガソリンスタンドでガソリンを買わず、次の日の「日の出直後」くらいまで待ってから買ったほうが同じリッター数でも多めに買えるというわけだ。理屈上は。

肝心なガソリンの熱膨張率だが、0.00135となっている。(https://kikenbutu-web.com/buturikagaku/taibochoritsu.html)つまり気温が1℃上昇すると体積が1.00135倍になる。

ちなみに今日は最低気温7℃、最高気温16℃なのだが、1日の気温差が9℃ある。最低気温時に30Lのガソリンを買った場合、最高気温時に買うよりも30000*9*0.00135=364.5cc多く買える計算になる。

350cc

ただし、ガソリンを貯蔵している地下は地上よりも気温が安定しているため、誤差はより少ないと思われるが、寒暖さが激しいこの時期は早朝に入れたほうがほんの少し得をした気分になれるかもしれない。

金山城跡

金山城の歴史

今に残る金山城跡は、岩松(新田)家純(いえずみ)が文明元年(1469)に築城したものが基礎となっています。その後、下克上によって実質的な城主となった横瀬氏改め由良氏の時代に全盛となりました。上杉氏、武田氏、小田原北条氏、佐竹氏など戦国時代の雄に取り囲まれた中、その攻略によく耐え抜いてきましたが、天正12年(1584)小田原北条氏に捕らわれの身となった城主由良国繁と、その弟長尾顕長(館林城主)の帰還を条件に開城し、小田原北条氏の家臣が城番として配置されました。

天正18年(1553)、小田原北条氏の滅亡と共に廃城となりました。江戸時代には金山「御林」として徳川幕府直轄地となり、現在に良好な城跡遺構を遺す結果となっています。

旧通路

西矢倉台西堀切内の通路を隠すように盛られた土塁状の高まりの下からは、通路の宴席と思われる石列がみつかりました。この石列により、西矢倉台西堀切内の通路よりも古い時期に桟道(かけはしみち)からまっすぐ西へ進む通路があったと考え、発掘調査によって通路を確認しました。この通路は岩盤に丸太をかけて作られた桟道とは異なり、地山を削りだして通路を作っていた事がわかりました。桟道は、急斜面で岩盤が張り出しているため、岩盤を加工して通路を作り、岩盤の張り出していないこの部分では、地山を削りだして通路を作っています。このように当時の地形を利用して通路を造った様子がうかがえます。

西矢倉台西堀切

西城から本丸までの間にある4つの堀切のうち、一番西寄りにある堀切です。この堀切は他と異なり、掘底に石をしいて通路として利用しており、通路の先は桟道へと続いています。また、通路の北側には柱穴があり、北側からの敵兵の侵入を防ぐための柵があったと考えられます。

西矢倉台下堀切

西矢倉台の西下に作られた防御施設で、西城から本丸へ向かう間の二番目の堀切となります。この堀切は大堀きり、物見台下堀切と比べて規模は小さく、堀切は実城に近づくにつれ幅が広く、深く造られています。

虎口

入り口を狭くすることで敵の流れ込んでくる勢いを弱めます。

 

正面は行き止まりになっており、本丸へ向かうには狭い階段を上らなければなりません。

馬場通路・石塁

物見台から東の北側斜面際では、物見台基壇と一体となって造られた幅約1.2mの石塁が約72mの長さで発見されました。この石塁は、来たの長手口からの攻撃に備える防御上の効果があったと考えられます。さらに、長手口から、北側の岩盤を険しく見せるための視覚的効果を意識して、この石塁の上に築地塀が造られていたと考えられます。しかし、調査では丈夫の崩落が著しく、塀の痕跡は発見されませんでした。物見台から東の南斜面際では、石敷きされた通路が発見されました。この通路は物見台と東側に位置する馬場曲輪を結ぶと共に、途中で南下にある馬場下通路へと分岐しています。

物見台

物見台の基壇は、自然の地形に沿って等脚台形に造られており、基壇中央から物見矢倉と考えられる柱穴が4本発見されています。また、物見台基壇からは、釘や火縄銃の弾丸が出土しています。この物見台からは、金山城の周囲が欲見渡せるため、敵(上杉謙信)は、物見台から死角となる藤阿久へ陣を構えました。

物見台からの景色。

馬場曲輪

物見台から、東に向かう通路は、北斜面際の石敷通路を経て、馬場曲輪へと至ります。馬場曲輪の調査では、岩盤を刳り貫いた柱穴が240個以上みつかり、位置関係から建物や柵列があったことがわかりました。また、建物は少なくとも5回の立替、曲輪の生活面は3回の造成があり、頻繁に作り替えを行っていた事も明らかになりました。

大堀切

敵兵が尾根づたいに進攻してくるのを防ぐために造られた堀切は、山城にとって一般的な防御施設です。とくにこの大堀切は、金山城のなかでも最も主要な防御拠点である大手虎口の目前にあるため、長さ46m、幅15m、深さ15mと大規模に造られています。発掘調査の結果、この大堀切は尾根を形成している岩盤を深く掘り下げ、掘底は平らに削られている事がわかりました。また、掘底には長さ7m、高さ1.5m、幅1.8mの石積みでできた畝状の防御施設が1箇所見つかりました。掘底が平らになっていることで、敵兵の侵入経路にならぬよう、障害物として造られたものであると考えられます。

月の池

大手虎口

虎口は、城や城内の各曲輪への出入り口部を指し、「小口」とも書かれます。敵の侵攻から城を守る重要な場所であり、門・柵・塀・土塁・石垣などで厳重に真も割れています。また一方、虎口の「構え」は、「格の高さ」を示す空間ともなっています。

大手虎口南上段曲輪

復元された釜戸。敵の侵入に備える武士達が使用した釜戸です。昔は建物の外に釜戸を設けたことがありました。

井戸跡

日ノ池

日の池は、15m×16.5mのほぼ円形の池です。発掘調査によって、石垣や石敷、2箇所の石組み井戸、石階段などが発見されました。さらに石敷の下からは、日ノ池に通じる通路跡や改修工事が行われた跡、また、谷をせき止め、斜面からの流水や湧き水を貯める構造になっていることも分かりました。

日の池は山の上では希な大池であり、金山城における象徴的な場所のひとつです。ここは、単に生活用水を確保した場所ではなく、戦勝や雨乞いなどの祈願を行った儀式の場所であったと考えられます。

また、水の信仰と関わる平安時代の遺物も発見されており、日ノ池が立地する場所は、築城以前から神聖な場所であったようです。

武者走り

天主曲輪の東側

天主曲輪裏馬場

馬場と言うが、実際は、馬場のある廓である。馬は山城でも伝令用として使われていたので、馬場の必要があるが、音に敏感な動物のため、攻撃にさらされないよう、城廓でも静かな裏側に設けられた。ここには馬薬用としての、さいかちが植えられてある。

金山城石垣

金山城は、全域を石垣で築かれた関東地方では珍しい城である。石垣用材は、金山石が手近にあるので使用したものであるが、大きな石は柱状節理の山麓の根石を山頂、山腹まで持ち上げた大工事である。積み方は、「野面積」で長い石の大きい面を奥に、小さい面を表にしてあるため、別名、「ゴボウ積」とも言われる。断面は、直線的で、緩傾斜し、栗石を十分使用しているために強固である。

本城

金山城の中枢で、水ノ手廓を中心として約1万坪ある。実城とも言い、城主の御殿があったところなので城主を実城殿とも呼んだ。御殿の礎石は、大欅の南方平地に列石状に出土した。武者造り、掘切りは壕内道を兼ねている。本城内に於て、実城、内方、小座、旦那、御入、局等の名称が見られる。

本丸跡

法神流発祥の地

すっかり法神流にはまっています。観光がてら法神流発祥の地と中澤兄弟の村へ行ってきました。

法神流は形式にとらわれ、肉体を鍛錬するにとどまる「お座敷剣法」ではなく、時には肉体の一部も武器にする実践的剣法である。(群馬剣道史 H.10.3.30)

金山宮

車をしばらく走らせているとこのような「兵法 法神流剣術発祥之地 深山入口」という石碑を見つけた。

しばらく細い道を進むと、やはり細い入口があった。下に道があることを信じて坂を下ると、車数台置けるスペースがあった。

二つ鳥居がある。金山宮は左の鳥居。

右の八幡宮/八坂神社の横には新法神流伝来碑がありました。

階段を上がります。

拝殿が現れるがここではない。

階段を上ったらまた鳥居が現れた。鳥居の先には先が見えないほどのながーい石段が。。。

一直線に伸びたでこぼこしたいびつな階段を登るにはいつも以上に神経を使う。脚を踏み外したら一番下まで勢いよく転がって行くだろう。なんて考えて振り返ると足がすくむ。

登る事数分。あともう一息。

351段だそうで。自分が住んでいるところよりも標高が高く空気が薄いためいつも以上に息が切れた。ここがあの金山宮か。

大きな木刀が掛けられていた。

法神流養武館道場跡地

法神流といったら、中澤兄妹を忘れてはならない。法神流養武館道場は中澤家が三代に至るまで開いていた法神流道場で、兄妹は新徴組隊士として江戸で警備の任についた。

園原ダムの東にある集落のメインストリートを走っていると法神流養武館道場跡地の石碑が現れる。

石碑にはこうある。

法神流 養武館道場跡地
大正初期 焼失

初代 中澤孫右衛門
二代 中澤貞祗
三代 中澤栄太郎

親・子・孫・三代に渡り道場を開き、琴もここで剣を習い、江戸時代末期に貞祗と琴の兄妹は、新徴組隊士として江戸市中警護を実施した

中澤兄妹の墓

法神流の兄弟の墓がある。兄の墓には人名がびっしりと彫られていた。門弟の名?
隣には妹・中澤琴の墓が控えめに佇んでいた。何故か中澤琴の墓は2016年11月に作られるまで存在しなかった。

中澤琴を描いたNHKドラマ「花嵐の剣士 ~幕末を生きた女剣士・中澤琴~」(2017年)ではエンドロール中に中澤琴役の黒木メイサが兄の墓に花束を手向けるカットが入っています。

園原騒動 法神流VS神道一心流

楳本法神(富樫政武)の高弟 須田房吉は優れた家系と豊かな財力を持つ家の次男として勢多郡深山村で生まれた。眉毛が巻き上がり、目は澄んだ優美な顔つきであった。しかし性格は傲慢で沈着、物事を裁くのが機敏だった。父も祖父も楳本に習っていた。房吉が法神についたのが18歳の時だった。

文政2年、房吉は前橋・紺屋町に道場を建てる。文政9年3月にはこの道場を義弟・森田与吉に譲り、江戸・木挽町と赤坂の2箇所に道場を持った。

文政11年7月11日、夜の江戸・神田橋上で十数名の襲撃を受け、二人に浅手を負わせて撃退するが、後難を恐れて帰郷する。
帰郷後は海蔵寺門前、明覚院門前に道場を開いた。

文政13年3月、房吉42歳。平川不動へ額を奉納した。これを知った神道一心流 中沢伊之吉は憤怒した。

以下の画像は問題となった額。旧字体で法神流と書いてあり、門弟の名前が列挙されている。

伊之吉の生家は隣村園原村の豪農で、神道一心流開祖 櫛渕虚沖軒(櫛淵宣根)の高弟であり、浅草田原町八幡神社地内に道場を構える山崎孫七郎に入門し、文政12年に免許状を手に28歳にして帰郷後道場を開いた。免許を手に大きい顔をして帰ってきたはいいものの、同じく江戸で活躍していて一足早く額を奉納する隣町の須田房吉に嫉妬を抱いたのだろう。群馬の田舎剣法が東京で学んだシティ剣法に敵うはずがない!と。

房吉の法神流VS伊之吉の神道一心流という隣村同士で勢力争いが起こっていたようだ。

須田房吉を討ち取るべく中沢伊之吉は師である山崎孫七郎を江戸から助っ人に呼び出し、指揮を取らせた。この男は元力士で藤綱という四股名だったが、右ひじを負傷した後に武芸者に転職した。柔術は扱心流、槍は種田流。身長175cm、色黒でゴツゴツした体つきでぶっきら棒で気が荒い人物だった。

中沢伊之吉は須田房吉を自宅へ呼び出した。須田房吉は箱田の森田与吉と南室の石田寿吉を連れて3人で向かった。中沢伊之吉の家に向かうと、30人の門弟に包囲され、石や薪の棒を投げつけられ乱闘になった。含み針によって2人に浅手を負わせ庭に飛び出す。1.8mの塀を飛び越えたが、着地したところが泥田だった。身動きできないところを中沢家の屋根から2人の狙撃手によって狙われ、みぞおちを撃たれ死亡。天保2年(1831年)3月11日の18:00頃の出来事だった。

須田房吉が身を呈して敵を引き付けたおかげで森田与吉は命からがらその場から逃げる事ができた。遭難の後、新田郡徳川郷士正田氏の師として迎えられ、生田氏と名乗った。

中沢伊之吉、山崎孫七郎、門弟らは後に検挙され、それぞれに罰金・禁錮刑などの処分が下った。この件に関わった十数名が勾留されたが、赤痢が流行して大半が死亡した。

ソース:群馬剣道史 H.10.3.30

謎多き「法神流」の剣祖「楳本法神」とは何者か?

とある記事で「楳本法神」という人物名が目に留まった。
最初は人物名と思えず、何なのかググって見たら謎多き剣法家だということが分かった。

ググって見る限り、現時点では「楳本法神」について言及されているウェブページは4つほどしかなかった。何でもググれば分かるネット社会だというのに、こんなにも極僅かな情報量しか得られない「楳本法神」という人物にすっかり惹き付けられていた。

Wikipediaによると楳本法神について以下のように載っている。
ソースは『剣の達人111人データファイル』(新人物往来社) を元にしていると思われる。

楳本 法神(うめもと ほうしん、1727年(享保12年) – 1830年(文政13年)8月14日は、日本の剣法家。

本姓は富樫で、加賀金沢の富樫政親(政高とも)の子という。父から家伝の剣法を学び、長崎で医学と占術を学び、1日に30里を走るなど、文武とも卓越していたとされる。

晩年は、上州(群馬県)赤城山に住み木曽三柱神社の境内で法神流剣法を指南。門人3千といわれた。その剣法は法神亡きあと、法神流として伝えられた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B3%E6%9C%AC%E6%B3%95%E7%A5%9E(2019323閲覧)

生まれは現在の石川県で姓は富樫。文武に卓越していた。晩年は赤城山に住み、「木曽三柱神社」の境内で法神流剣法を指南しており門人が3,000人も居た。とのこと。

「法神流」は初耳だった。3,000人もの弟子がいるのなら、もっと有名でもおかしくないはず。。後述の数多くの矛盾から、架空の人物である可能性も考え、流派の存在すら疑いかけたが、法神流出身という持田盛二らの存在によって「楳本法神」が全くの架空ではない事を裏付けている。

法神流の使い手(1) 持田盛二

生誕 1885年1月26日
群馬県勢多郡下川淵村
死没 1974年2月9日(89歳没)
記念碑 持田盛二先生頌徳碑(前橋市)
国籍 日本
別名 号:邦良
出身校 大日本武徳会武術教員養成所
流派 法神流、北辰一刀流
肩書き 剣道範士十段
受賞 勲三等旭日中綬章
紫綬褒章
警察功績章
大日本武徳会一等有功章
全日本剣道連盟剣道殿堂顕彰

持田 盛二(もちだ もりじ / せいじ)、1885年(明治18年)1月26日 – 1974年(昭和49年)2月9日)は、日本の剣道家。段位は範士十段。「昭和の剣聖」と称される剣道家の一人。

先祖は戦国時代の武士・持田監物。監物は上泉信綱らと共に上野国箕輪城主・長野業正に仕え、後に帰農した。盛二の父・持田善作は、法神流剣法第4代継承者・根井行雄の高弟で、免許皆伝の腕前を持ち、群馬県勢多郡下川淵村の自宅に道場を設けて門人を指南していた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%94%B0%E7%9B%9B%E4%BA%8C

法神流の使い手(2) 中沢琴 

中沢 琴(なかざわ こと、生年不詳 – 1927年10月12日)は、現在の群馬県出身で新徴組に参加した法神流の女剣士。父は利根法神流剣術の道場主中沢貞清(通称:孫右衛門)。兄は新徴組隊士の中沢貞祇。

上野国利根郡利根村穴原(現在の群馬県沼田市利根町穴原)生まれ。幼少から剣術、とくに長刀に優れ、1863年、浪士組に参加する兄に従い男装して京へ上り、のち新徴組に参加、各地を転戦した。当時としては男としてもかなりの背丈となる 170 cm と言う身長で、男装していれば娘たちに惚れられて困ったらしい。

自分より強い者と結婚すると決め、結局現れなかったため生涯独身で過ごした。

1927年10月12日死去。琴の死後、故郷にある彼女の通っていた道場が大正初期に焼失して記念碑が建てられた

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%A2%E7%90%B4

リアル薄桜鬼ですね。ちなみに彼女の物語はNHKにて黒木メイサ主演でドラマ化されています。「花嵐の剣士 ~幕末を生きた女剣士・中澤琴~」(2017年)

楳本法神の寿命について

楳本法神はWikipediaの情報によると1727-1830年つまり103歳で没したとある。注釈に「木曽三柱神社の法神流剣法伝統碑によれば、168歳で没したとある。」とも書いてある。平均寿命が50歳前後の時代に103歳というのは長すぎる気もするが、人間の最大寿命を120歳と考えると現実味はある。しかし168歳はどうも眉唾である。

木曽三柱神社

楳本法神は晩年に木曽三柱神社で指導をしていたとの事なので、「木曽三柱神社」をGooglemapで調べてみたが、非常に珍しい事にレビューが一つもなかった。(執筆時)それだけ無名な神社なのだろう。1kmほど西によく似た名前で「木曽三神社」があり、そちらにはレビューがちゃんと付いていた。

「木曽三神社」と「木曽三神社」、これだけ名前を似せているのだから何かがあるのだろうと思い調べてみると、養子と養祖父のケンカが村ぐるみの争いに発展し、養祖父が「木曽三柱神社」を現在の場所に作ることで分裂して現在に至ったとのこと。

木曽三柱神社の創設には複雑な経緯があるようだ。安政二年(1855)、滝之宮(現木曽三社神社)の神主になった高梨宮之亮(養子)は養祖父高梨八千穂と合わず、この争いが箱田・下箱田両村の争いに発展。宮之亮は実家に帰り、八千穂は箱田村の将軍塚上に一社を創設、拝殿と称して箱田村民はここで神拝を始めた。後に箱田村は新宮を建立、滝之宮より分立、木曽三柱神社と称した(平凡社刊「群馬県の地名」)。

ここで矛盾に気づく。楳本法神が没したのは1830年。木曽三柱神社ができたのが1855年。楳本法神の死後に木曽三柱神社ができたのだから晩年に木曽三柱神社の境内で剣術を教えることなんて不可能である。

しかし、木曽三柱神社には法神流伝統碑が置いてある。

木曽三柱神社にある法神流伝統碑 http://www3.wind.ne.jp/sudash/mytown/b-kengou/hibunkiso.htm

金山宮

法神流の発祥の地として赤城町深山が挙げられている。金山宮には「新法神流伝来碑」という石碑が設置されている。

金山宮にある「新法神流伝来碑」

木曽三柱神社の石碑と金山宮の新法神流伝来碑の情報をまとめると、法神流の筋は以下のようになる。

奥山休賀斎(=音住):上泉伊勢守の高弟。徳川家康の剣師。晩年三河明神に隠棲して神僧となり音寿斎(音住斎)と号す。
右坂保重:奥山休賀斎の高弟
富樫政親:加賀国の名族。右坂保重に教えを請う。
富樫政武:数世の子孫。楳本法神と名乗り始める。
→須田為信:中沢伊之吉に名声を妬まれ、山崎孫七郎ら数十人に待ち伏せされ最終的に銃殺される。(園原騒動
勝江玄隆(森田与吉):為信襲撃の際、為信と共に居たが、為信によって命からがら逃がされる。遭難の後、新田郡徳川郷士正田氏の師として迎えられ、生田氏と名乗った。
根井行雄:高弟に持田善作あり。持田盛二の父である。

勝江玄隆(森田与吉)が箱田出身だったため、木曽三柱神社に法神流伝統碑が建っていたのだ。

根井行雄については群馬の民俗学者である今井 善一郎の著書 『根井行雄伝』北橘郷土研究会 1958 に詳しくありそうだ。

医光寺にある楳本法神の墓

群馬県桐生市黒保根町上田沢326の医光寺に楳本法神の墓がある。

非常に分かりづらいが、本堂の脇の階段を上っていき奥にあった。「大富樫院靏誉白翁居士」という立派な戒名が彫られているが、「大」が彫り損ねているように見える点が気になる。

墓の隣に立っていた黒保根村教育委員会の案内板にはこのように書かれていた。

楳本法神の墓

法神は加賀国(石川県)に生れ、長じて上泉伊勢守に師事した武芸者である。後に一流を編み「法神流」の剣祖となり、諸国を廻り多くの剣士を育てた。園原騒動で有名な赤城村須田房吉も法神の高弟であった。また医術の心得も深かったという。

文政十三年、門人青山歌之助(柏山の住)なる家に病で客死したが、その享年は百六十八歳と伝えられている。大正八年吉祥寺(柏山)の廃寺とともに当寺に移骨されてあったが、昭和四十七年にいたり五十五世住職恭信師によって埋骨、墓碑が建立されたものである。

一通り調べてから改めて黒保根教育委員会が作った説明を読んでみると、これまた大嘘書いているなぁと関心する。
上泉伊勢守は1508年生まれ1577年没とされており、楳本法神は1727年生まれ1830年没とされている。彼らの間には150年もの時間差があるため「長じて上泉伊勢守に師事」は不可能。奥山休賀斎と間違えている。ちゃんと石碑や資料を読めば間違いに気づくと思うのだが、職員が適当に作文をしてしまったようだ。

まとめ

法神流の起源は新陰流の上泉伊勢守にさかのぼる。上泉伊勢守の高弟に奥山休賀斎という剣客が居た。奥山休賀斎は後に徳川の剣師となり、晩年は出家し「音寿(住)斎」と号す。奥山休賀斎の高弟に右坂保重がおり、諸国を巡り、加賀国(現在の石川県)に至る。そこの名族である富樫政親に奥秘を教え、富樫政親より五伝して富樫政武に至る。

奥山休賀斎→富樫政武の流れは園原騒動の発端となった額でも確認できる。

富樫政武には天賦の才があり、名を楳本法神と変え、諸国を巡る。長崎で医療も学んだ後、晩年には赤城の麓で過ごす。楳本法神の高弟には須田為信がおり、最終的には数千人もの門弟を抱える流派になった。新法神流伝来碑が置いてある金山宮は須田為信が生まれた場所とのこと。木曽三柱神社に法神流伝統碑があるのは、須田為信の高弟 勝江玄隆(森田与吉)がここ箱田出身であったため。

「法神流」は今も渋川の方で受け継がれているようだ。
https://blogs.yahoo.co.jp/amb_akagi/folder/1143199.html

JB23乗りによるジムニーの評価

JB23 10型乗りがジムニーについてレビューをしてみようと思います。

ジムニーの長所

高い走破性

高い車高と大口径タイヤと長いサスペンションストロークにより悪路走破性はピカイチです。

ボディが堅牢

ジムニーはラダーフレームを採用しているため、ボディーが堅牢です。多くの車はフレームとボディが一体のモノコックボディのため、ボディをぶつけると全体が平行四辺形に歪んでしまいますが、ジムニーの場合はフレームとボディが独立しているため、クロカン中にボディをぶつける程度ではフレームまでダメージは及びません。

 

実はジムニーって10段変速なんです(MT)

ジムニーは副変速機を搭載しているため、4WD-Lを選択するとギア比が更に落ち、非常に大きな力を発揮する事ができます。そのパワーは雪でスタックしたトラックも牽引できるほどです。

駆動方式と副変速機の切り替えはJB23の後期からレバーからスイッチ式になりましたが、JB64になってまたレバーになりましたね。個人的にはシンプルな構造でノールックで操作できるレバーの方が好きです。

リンクリジットサスペンションで頑丈

ジムニーは前後リンクリジットサスペンションを採用しています。リンクリジットのメリットとしては頑丈であること。そのためアラインメントもずれにくいです。

ジムニーの短所

ギャップを踏んだ際の横揺れが激しい

ジムニーは全車、前後リンクリジットサスペンションのため、ギャップを乗った際に横揺れが激しい特性があります。リンクリジットでは右のタイヤでギャップを拾ったとしたらその振動の半分くらいは左にも伝わるため、独立懸架式サスペンションの車と比べて乗り心地は悪くなります。

重くてトロくて燃費が悪い

JB23(MT)は980kgと非常に重いため、エンジンの負荷が大きく、出足がトロいです。おそらくリッターカーからジムニーに乗り換える人や他の軽自動車からジムニーに乗り換える人はトロさに驚くかと思います。そんなこともあって、今時の軽自動車と比べたらやはり燃費は悪く、MTでも14km/Lくらいしか走りません。

ステアリング応答性が悪い

ステアリング応答性が悪いです。ステアリングを切って直ぐに車が向きを変えてくれるわけではなく、ボディ、ブッシュ、タイヤなどが一旦よれてからステアリング操作が効き始めるというような感じなのでどうしても一呼吸操作が遅れてしまうのです。遊びの多い構造上仕方ないのですが。

でもコツがありまして、コーナー手前からステアリングを少しきっておいて僅かに横Gでテンションをかけておくのです。あとは切り足すという操作をすればラグが減ります。

4人乗り?2人乗りです

車検上は4人乗りとなっていますが、後部座席は狭いしシートは固いし乗り心地は最悪です。自分の場合は2シーターで十分だろうと。リアのシートは常に倒しています。

JB64よりJB23が優れているところ

ボディー形状から空力的にJB23の方が有利です。エンジンのトルクはJB23のK6Aの方が1kg・mほど高いようです。重量はJB23 MTの方が50kg軽量です。おそらくレースをしたらJB23の方が優れているんじゃないかと思います。まあそういう車じゃないですが。

JB23よりJB64が優れているところ

ラダーフレームにXメンバーが追加されており捻りに強くなっていたり、細かいところに補強が入っていたりするところがポイント高いですね。あと4WD-L時に動作するブレーキLSDは素晴らしい。以前は機械式LSDを入れるべきところをオープンデフのままコンピューテーションで賢く解決しています。自動ブレーキやクルーズコントロールがあったり、画像解析で標識を読み取ってくれたりなんだか至れり尽くせりです。

エンジン音がJB23のK6Aより静かで、乗り心地もマイルド。だけどもリンクリジットサスである以上、横揺れはありますね。だがフロントのスタビライザーのバネレートが上がっていてロールは押さえられてる様子です。ステアリングダンパーが標準搭載され、路面からのキックバックが押さえられています。

JB23と比べるとサイドピラーが立てられていて、死角が減ってる。助手席のつかまるところが復活した。見た目がカッコいい。。。

まとめ

カスタムのベース車両としてはJB23。完成品としてはJB64がいいんじゃないでしょうか。乗り心地を求めるのなら他の車をどうぞという感じで。

ネットでJB64のレビューを見ていると時々「評判より乗り心地が悪い」というようなものがありますが、ジムニー界で言われる「乗り心地の良い」を大衆語に訳すと「パラメータをオフロードに全振りしている割にオンロードも不可は無いよね」です。そこら辺を勘違いしないで頂きたいですね。

前後リンクリジットコイルサスペンションな時点で乗り心地は他の軽自動車に確実に劣ります。ブッシュが縦方向に強いとかスタビのバネレートがどうとか色々改善されてはいますが、根本的に乗り心地が悪い脚なのです。また、64馬力の軽規格エンジンで1tを超えるボディを動かすことを考えるとやはり他の軽自動車より機敏さと燃費は期待できません。

新型ジムニーの評判に乗って買ったはいいけどこんな車だったなんてと思わないように良く吟味していただけたらなと思います。

猫の城 唐沢山城跡/唐澤山神社

千年の古城跡 唐澤山神社」へ行ってきました。

唐沢山城は延長5年(927年)に藤原秀郷によって築城され、慶長7年(1602年)に廃城になりました。主な城主は佐野氏で、本丸の唐澤山神社には築城主である藤原秀郷が祭られています。

平安時代から戦国時代を経て安土桃山時代までの675年間も歴史があるなんて凄いですね。一寸先すら予想ができない現代と比べたら物凄いタイムスケール感の差を感じます。

くい違い虎口(枡形門とも)は敵が流れ込んで来るのを防ぐための門で、城の入り口には必ずといっていいほどこのような形の門があります。

門を入って右手に天狗岩があります。ここには物見やぐらがあったそうで、見晴らしがいいです。
これはなんていう岩なんでしょうか。斜めにミルフィーユ状になっています。天狗岩を登ると平らになっているところがあって昼寝にはちょうど良い場所がありました。

大きな井戸は大炊(おおい)の井といいます。口径9m、深さ8m以上の大きい井戸です。築城に際して厳島大明神に祈請したとされています。現在まで涸れずに豊かな水を蓄えているとの事です。

やはり金山城にも全く同じような井戸があって、そちらも祈りや儀式などに使われていたそうです。

大手道を道なりに進んでいくと桜の馬場→南城館→本丸にたどり着きます。大手道は途中で鋭角になっているところがあり、侵入させない工夫がされていました。

標高249mの本丸から鳥居越しに景色を見ると、空に居るかのように錯覚します。

本丸の高石垣は400年以上前からそのままだそうです。この山は環境的に非常に安定したところなのでしょうね。

当時から涸れていない大炊の井があって水も豊富だし、見晴らしはいいし、当たり前ですが良い場所に城を造るんだなと関心しました。

唐沢山城跡には人懐っこい猫が住んでいます。ちゃんと去勢もされており、えさやりOKとのこと。人々は皆猫の前で跪き、撫でたりちゅーるをあげています。そんな様子を見て思いました。現在の城主は猫なのだ。

24時間ここに住まい、自らのかわいさをもってして人々から食糧を貰い、撫でさせたりと自分たちが望む事をさせる。本質的に猫が城主といっても過言ではないのでは。

城に携わった英霊が祭られているという霊廟

霊廟から引き返す時に気づいたのですが、霊廟の手前に猫の墓がありました。

この日は良い天気だったため結構な人で賑わっていたのですが、殆どの人は虎口から本丸を往復するだけで寄り道をする人が少ない印象でした。自分ですらここに猫の墓があるのに気づかなかったので多分殆どの人が気づいていないでしょう。生きている猫をかわいがるのもいいですが、亡くなった猫もちゃんと供養して欲しいですね。

道場を開きます

合気道を始めて今年で5年目になります。師範から道場開きの許可を頂いたので、2019年4月より道場を開きます。平成の最後の最後に目標だった道場開きができて嬉しく思います。

組織に恥じないように忠実な技を伝えていきたい所存です。

興味のある方はお気軽にご連絡ください。メールでもラインでもこの記事のコメントでもOKです。

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