園原騒動 法神流VS神道一心流

楳本法神(富樫政武)の高弟 須田房吉は優れた家系と豊かな財力を持つ家の次男として勢多郡深山村で生まれた。眉毛が巻き上がり、目は澄んだ優美な顔つきであった。しかし性格は傲慢で沈着、物事を裁くのが機敏だった。父も祖父も楳本に習っていた。房吉が法神についたのが18歳の時だった。

文政2年、房吉は前橋・紺屋町に道場を建てる。文政9年3月にはこの道場を義弟・森田与吉に譲り、江戸・木挽町と赤坂の2箇所に道場を持った。

文政11年7月11日、夜の江戸・神田橋上で十数名の襲撃を受け、二人に浅手を負わせて撃退するが、後難を恐れて帰郷する。
帰郷後は海蔵寺門前、明覚院門前に道場を開いた。

文政13年3月、房吉42歳。平川不動へ額を奉納した。これを知った神道一心流 中沢伊之吉は憤怒した。

以下の画像は問題となった額。旧字体で法神流と書いてあり、門弟の名前が列挙されている。

伊之吉の生家は隣村園原村の豪農で、神道一心流開祖 櫛渕虚沖軒(櫛淵宣根)の高弟であり、浅草田原町八幡神社地内に道場を構える山崎孫七郎に入門し、文政12年に免許状を手に28歳にして帰郷後道場を開いた。免許を手に大きい顔をして帰ってきたはいいものの、同じく江戸で活躍していて一足早く額を奉納する隣町の須田房吉に嫉妬を抱いたのだろう。群馬の田舎剣法が東京で学んだシティ剣法に敵うはずがない!と。

房吉の法神流VS伊之吉の神道一心流という隣村同士で勢力争いが起こっていたようだ。

須田房吉を討ち取るべく中沢伊之吉は師である山崎孫七郎を江戸から助っ人に呼び出し、指揮を取らせた。この男は元力士で藤綱という四股名だったが、右ひじを負傷した後に武芸者に転職した。柔術は扱心流、槍は種田流。身長175cm、色黒でゴツゴツした体つきでぶっきら棒で気が荒い人物だった。

中沢伊之吉は須田房吉を自宅へ呼び出した。須田房吉は箱田の森田与吉と南室の石田寿吉を連れて3人で向かった。中沢伊之吉の家に向かうと、30人の門弟に包囲され、石や薪の棒を投げつけられ乱闘になった。含み針によって2人に浅手を負わせ庭に飛び出す。1.8mの塀を飛び越えたが、着地したところが泥田だった。身動きできないところを中沢家の屋根から2人の狙撃手によって狙われ、みぞおちを撃たれ死亡。天保2年(1831年)3月11日の18:00頃の出来事だった。

須田房吉が身を呈して敵を引き付けたおかげで森田与吉は命からがらその場から逃げる事ができた。遭難の後、新田郡徳川郷士正田氏の師として迎えられ、生田氏と名乗った。

中沢伊之吉、山崎孫七郎、門弟らは後に検挙され、それぞれに罰金・禁錮刑などの処分が下った。この件に関わった十数名が勾留されたが、赤痢が流行して大半が死亡した。

ソース:群馬剣道史 H.10.3.30

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