謎多き「法神流」の剣祖「楳本法神」とは何者か?

とある記事で「楳本法神」という人物名が目に留まった。
最初は人物名と思えず、何なのかググって見たら謎多き剣法家だということが分かった。

ググって見る限り、現時点では「楳本法神」について言及されているウェブページは4つほどしかなかった。何でもググれば分かるネット社会だというのに、こんなにも極僅かな情報量しか得られない「楳本法神」という人物にすっかり惹き付けられていた。

Wikipediaによると楳本法神について以下のように載っている。
ソースは『剣の達人111人データファイル』(新人物往来社) を元にしていると思われる。

楳本 法神(うめもと ほうしん、1727年(享保12年) – 1830年(文政13年)8月14日は、日本の剣法家。

本姓は富樫で、加賀金沢の富樫政親(政高とも)の子という。父から家伝の剣法を学び、長崎で医学と占術を学び、1日に30里を走るなど、文武とも卓越していたとされる。

晩年は、上州(群馬県)赤城山に住み木曽三柱神社の境内で法神流剣法を指南。門人3千といわれた。その剣法は法神亡きあと、法神流として伝えられた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B3%E6%9C%AC%E6%B3%95%E7%A5%9E(2019323閲覧)

生まれは現在の石川県で姓は富樫。文武に卓越していた。晩年は赤城山に住み、「木曽三柱神社」の境内で法神流剣法を指南しており門人が3,000人も居た。とのこと。

「法神流」は初耳だった。3,000人もの弟子がいるのなら、もっと有名でもおかしくないはず。。後述の数多くの矛盾から、架空の人物である可能性も考え、流派の存在すら疑いかけたが、法神流出身という持田盛二らの存在によって「楳本法神」が全くの架空ではない事を裏付けている。

法神流の使い手(1) 持田盛二

生誕 1885年1月26日
群馬県勢多郡下川淵村
死没 1974年2月9日(89歳没)
記念碑 持田盛二先生頌徳碑(前橋市)
国籍 日本
別名 号:邦良
出身校 大日本武徳会武術教員養成所
流派 法神流、北辰一刀流
肩書き 剣道範士十段
受賞 勲三等旭日中綬章
紫綬褒章
警察功績章
大日本武徳会一等有功章
全日本剣道連盟剣道殿堂顕彰

持田 盛二(もちだ もりじ / せいじ)、1885年(明治18年)1月26日 – 1974年(昭和49年)2月9日)は、日本の剣道家。段位は範士十段。「昭和の剣聖」と称される剣道家の一人。

先祖は戦国時代の武士・持田監物。監物は上泉信綱らと共に上野国箕輪城主・長野業正に仕え、後に帰農した。盛二の父・持田善作は、法神流剣法第4代継承者・根井行雄の高弟で、免許皆伝の腕前を持ち、群馬県勢多郡下川淵村の自宅に道場を設けて門人を指南していた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%94%B0%E7%9B%9B%E4%BA%8C

法神流の使い手(2) 中沢琴 

中沢 琴(なかざわ こと、生年不詳 – 1927年10月12日)は、現在の群馬県出身で新徴組に参加した法神流の女剣士。父は利根法神流剣術の道場主中沢貞清(通称:孫右衛門)。兄は新徴組隊士の中沢貞祇。

上野国利根郡利根村穴原(現在の群馬県沼田市利根町穴原)生まれ。幼少から剣術、とくに長刀に優れ、1863年、浪士組に参加する兄に従い男装して京へ上り、のち新徴組に参加、各地を転戦した。当時としては男としてもかなりの背丈となる 170 cm と言う身長で、男装していれば娘たちに惚れられて困ったらしい。

自分より強い者と結婚すると決め、結局現れなかったため生涯独身で過ごした。

1927年10月12日死去。琴の死後、故郷にある彼女の通っていた道場が大正初期に焼失して記念碑が建てられた

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%A2%E7%90%B4

リアル薄桜鬼ですね。ちなみに彼女の物語はNHKにて黒木メイサ主演でドラマ化されています。「花嵐の剣士 ~幕末を生きた女剣士・中澤琴~」(2017年)

楳本法神の寿命について

楳本法神はWikipediaの情報によると1727-1830年つまり103歳で没したとある。注釈に「木曽三柱神社の法神流剣法伝統碑によれば、168歳で没したとある。」とも書いてある。平均寿命が50歳前後の時代に103歳というのは長すぎる気もするが、人間の最大寿命を120歳と考えると現実味はある。しかし168歳はどうも眉唾である。

木曽三柱神社

楳本法神は晩年に木曽三柱神社で指導をしていたとの事なので、「木曽三柱神社」をGooglemapで調べてみたが、非常に珍しい事にレビューが一つもなかった。(執筆時)それだけ無名な神社なのだろう。1kmほど西によく似た名前で「木曽三神社」があり、そちらにはレビューがちゃんと付いていた。

「木曽三神社」と「木曽三神社」、これだけ名前を似せているのだから何かがあるのだろうと思い調べてみると、養子と養祖父のケンカが村ぐるみの争いに発展し、養祖父が「木曽三柱神社」を現在の場所に作ることで分裂して現在に至ったとのこと。

木曽三柱神社の創設には複雑な経緯があるようだ。安政二年(1855)、滝之宮(現木曽三社神社)の神主になった高梨宮之亮(養子)は養祖父高梨八千穂と合わず、この争いが箱田・下箱田両村の争いに発展。宮之亮は実家に帰り、八千穂は箱田村の将軍塚上に一社を創設、拝殿と称して箱田村民はここで神拝を始めた。後に箱田村は新宮を建立、滝之宮より分立、木曽三柱神社と称した(平凡社刊「群馬県の地名」)。

ここで矛盾に気づく。楳本法神が没したのは1830年。木曽三柱神社ができたのが1855年。楳本法神の死後に木曽三柱神社ができたのだから晩年に木曽三柱神社の境内で剣術を教えることなんて不可能である。

しかし、木曽三柱神社には法神流伝統碑が置いてある。

木曽三柱神社にある法神流伝統碑 http://www3.wind.ne.jp/sudash/mytown/b-kengou/hibunkiso.htm

金山宮

法神流の発祥の地として赤城町深山が挙げられている。金山宮には「新法神流伝来碑」という石碑が設置されている。

金山宮にある「新法神流伝来碑」

木曽三柱神社の石碑と金山宮の新法神流伝来碑の情報をまとめると、法神流の筋は以下のようになる。

奥山休賀斎(=音住):上泉伊勢守の高弟。徳川家康の剣師。晩年三河明神に隠棲して神僧となり音寿斎(音住斎)と号す。
右坂保重:奥山休賀斎の高弟
富樫政親:加賀国の名族。右坂保重に教えを請う。
富樫政武:数世の子孫。楳本法神と名乗り始める。
→須田為信:中沢伊之吉に名声を妬まれ、山崎孫七郎ら数十人に待ち伏せされ最終的に銃殺される。(園原騒動
勝江玄隆(森田与吉):為信襲撃の際、為信と共に居たが、為信によって命からがら逃がされる。遭難の後、新田郡徳川郷士正田氏の師として迎えられ、生田氏と名乗った。
根井行雄:高弟に持田善作あり。持田盛二の父である。

勝江玄隆(森田与吉)が箱田出身だったため、木曽三柱神社に法神流伝統碑が建っていたのだ。

根井行雄については群馬の民俗学者である今井 善一郎の著書 『根井行雄伝』北橘郷土研究会 1958 に詳しくありそうだ。

医光寺にある楳本法神の墓

群馬県桐生市黒保根町上田沢326の医光寺に楳本法神の墓がある。

非常に分かりづらいが、本堂の脇の階段を上っていき奥にあった。「大富樫院靏誉白翁居士」という立派な戒名が彫られているが、「大」が彫り損ねているように見える点が気になる。

墓の隣に立っていた黒保根村教育委員会の案内板にはこのように書かれていた。

楳本法神の墓

法神は加賀国(石川県)に生れ、長じて上泉伊勢守に師事した武芸者である。後に一流を編み「法神流」の剣祖となり、諸国を廻り多くの剣士を育てた。園原騒動で有名な赤城村須田房吉も法神の高弟であった。また医術の心得も深かったという。

文政十三年、門人青山歌之助(柏山の住)なる家に病で客死したが、その享年は百六十八歳と伝えられている。大正八年吉祥寺(柏山)の廃寺とともに当寺に移骨されてあったが、昭和四十七年にいたり五十五世住職恭信師によって埋骨、墓碑が建立されたものである。

一通り調べてから改めて黒保根教育委員会が作った説明を読んでみると、これまた大嘘書いているなぁと関心する。
上泉伊勢守は1508年生まれ1577年没とされており、楳本法神は1727年生まれ1830年没とされている。彼らの間には150年もの時間差があるため「長じて上泉伊勢守に師事」は不可能。奥山休賀斎と間違えている。ちゃんと石碑や資料を読めば間違いに気づくと思うのだが、職員が適当に作文をしてしまったようだ。

まとめ

法神流の起源は新陰流の上泉伊勢守にさかのぼる。上泉伊勢守の高弟に奥山休賀斎という剣客が居た。奥山休賀斎は後に徳川の剣師となり、晩年は出家し「音寿(住)斎」と号す。奥山休賀斎の高弟に右坂保重がおり、諸国を巡り、加賀国(現在の石川県)に至る。そこの名族である富樫政親に奥秘を教え、富樫政親より五伝して富樫政武に至る。

奥山休賀斎→富樫政武の流れは園原騒動の発端となった額でも確認できる。

富樫政武には天賦の才があり、名を楳本法神と変え、諸国を巡る。長崎で医療も学んだ後、晩年には赤城の麓で過ごす。楳本法神の高弟には須田為信がおり、最終的には数千人もの門弟を抱える流派になった。新法神流伝来碑が置いてある金山宮は須田為信が生まれた場所とのこと。木曽三柱神社に法神流伝統碑があるのは、須田為信の高弟 勝江玄隆(森田与吉)がここ箱田出身であったため。

「法神流」は今も渋川の方で受け継がれているようだ。
https://blogs.yahoo.co.jp/amb_akagi/folder/1143199.html

猫の城 唐沢山城跡/唐澤山神社

千年の古城跡 唐澤山神社」へ行ってきました。

唐沢山城は延長5年(927年)に藤原秀郷によって築城され、慶長7年(1602年)に廃城になりました。主な城主は佐野氏で、本丸の唐澤山神社には築城主である藤原秀郷が祭られています。

平安時代から戦国時代を経て安土桃山時代までの675年間も歴史があるなんて凄いですね。一寸先すら予想ができない現代と比べたら物凄いタイムスケール感の差を感じます。

くい違い虎口(枡形門とも)は敵が流れ込んで来るのを防ぐための門で、城の入り口には必ずといっていいほどこのような形の門があります。

門を入って右手に天狗岩があります。ここには物見やぐらがあったそうで、見晴らしがいいです。
これはなんていう岩なんでしょうか。斜めにミルフィーユ状になっています。天狗岩を登ると平らになっているところがあって昼寝にはちょうど良い場所がありました。

大きな井戸は大炊(おおい)の井といいます。口径9m、深さ8m以上の大きい井戸です。築城に際して厳島大明神に祈請したとされています。現在まで涸れずに豊かな水を蓄えているとの事です。

やはり金山城にも全く同じような井戸があって、そちらも祈りや儀式などに使われていたそうです。

大手道を道なりに進んでいくと桜の馬場→南城館→本丸にたどり着きます。大手道は途中で鋭角になっているところがあり、侵入させない工夫がされていました。

標高249mの本丸から鳥居越しに景色を見ると、空に居るかのように錯覚します。

本丸の高石垣は400年以上前からそのままだそうです。この山は環境的に非常に安定したところなのでしょうね。

当時から涸れていない大炊の井があって水も豊富だし、見晴らしはいいし、当たり前ですが良い場所に城を造るんだなと関心しました。

唐沢山城跡には人懐っこい猫が住んでいます。ちゃんと去勢もされており、えさやりOKとのこと。人々は皆猫の前で跪き、撫でたりちゅーるをあげています。そんな様子を見て思いました。現在の城主は猫なのだ。

24時間ここに住まい、自らのかわいさをもってして人々から食糧を貰い、撫でさせたりと自分たちが望む事をさせる。本質的に猫が城主といっても過言ではないのでは。

城に携わった英霊が祭られているという霊廟

霊廟から引き返す時に気づいたのですが、霊廟の手前に猫の墓がありました。

この日は良い天気だったため結構な人で賑わっていたのですが、殆どの人は虎口から本丸を往復するだけで寄り道をする人が少ない印象でした。自分ですらここに猫の墓があるのに気づかなかったので多分殆どの人が気づいていないでしょう。生きている猫をかわいがるのもいいですが、亡くなった猫もちゃんと供養して欲しいですね。

道場を開きます

合気道を始めて今年で5年目になります。師範から道場開きの許可を頂いたので、2019年4月より道場を開きます。平成の最後の最後に目標だった道場開きができて嬉しく思います。

組織に恥じないように忠実な技を伝えていきたい所存です。

興味のある方はお気軽にご連絡ください。メールでもラインでもこの記事のコメントでもOKです。

詳細はこちら

剣聖 上泉伊勢守のゆかりの地を巡ってきた

上泉伊勢守は陰流、神道流、念流などの諸流派を学び、赤城山での修行の後に「新陰流」を見出したとされています。現在、新陰流は柳生但馬守宗厳(石舟斎)らに伝えられ「柳生新陰流」として引き継がれています。

今回は群馬が生んだ剣聖:上泉伊勢守のゆかりの地を巡ってきました。

上泉城跡

上泉城は大胡城の出城であり、親類である上泉氏が在城していました。上泉伊勢守は永正五年(1508)「上泉城」で生誕し、居城していたそうです。

現在は自治会館となっており、城跡の面影はあまりありません。ですが、「無形の位」で袋竹刀を持つ上泉伊勢守の像は一見の価値はあるかと思います。

気になる人は気になるであろう手元のアップ。

おそらく世界に1台だけ?ご当地自販機。

大胡城跡

上泉城は大胡城の出城とのことなので、大胡城にも向かいました。

タイヤの跡があります。しかも結構深い。ウマなどは設置されていないので車で自由に入れてしまいます。さすがに城跡と言えどずかずかと車で入るのははばかられるので遠慮しておきましたが。

本丸跡からは中々年季の入った雰囲気のある屋根の工場が見えました。結構好きです。

視界の良い本丸からは赤城山がよく見えます。

的の進行を遅れさせる枡型門。おそらくここがメインの出入り口と思われます。

大胡城の裏に立派な「大胡神社」があったので寄ってきました。

箕輪城跡

殆どの城は見晴らしのいい場所に作られるものですが、箕輪城は他の城と違って周りから隠すように作られています。大抵の城は地形を見れば「あれは城だな」と分かるものですが、箕輪城はぱっと見ではただの山にしか見えません。

城の敷地は広大で高低差もあり立派です。地図上の掘には水の表記があります。御前曲輪には大きな井戸がありました。榛名山の麓というのもあり、水には困っていなかったのでしょう。

日本帝国陸軍の忠霊塔の前に大きな砲弾が2発ありました。これは本物なのでしょうか。。

鮮やかな梅です。

木々により周囲から隠されている本丸

赤城神社

赤城神社に上泉伊勢守の木像があるとのことなので見に行きました。色々と調べてみたところ、赤城神社が修行の地といういわれは池波正太郎著「剣の天地」が元となっているようです。その小説には上泉伊勢守が赤城神社で修行を重ねた事が書かれているようですが、事実なのかは不明です。

「神宮大麻をまつりましょう」えっ何で大麻?と思うでしょう。今の日本では大麻は違法薬物として忌み嫌う存在とされていますが、大麻の繊維は古来より紙や布の原料として古くから使われており神聖なものとして崇められていました。神道と大麻は切っても切り離せない縁があるんですね。

縮小像とのことですが、正直このディテイルではちょっと無理があるかなと。でも町おこしという観点では積極的に行動することはいいことです。この像の隣に自由に書き込めるノートがありましたが、この像がランドマークとなって、人が集まればそれはそれで活性化して良いでしょう。

上泉伊勢守については謎の部分が少なくなく、実際にフィールドワークで情報収集を試みましたが、ネットで調べられる以上の情報は手に入れられませんでした。しかし、その場に出向き、上泉伊勢守が居たであろう場所に行ったという点ではいい経験になったかなと思います。気持ちの問題ですけどね。

赤城山 茶屋の鉄道跡地

赤城山へは16号線は冬季通行止めなので4号線で登りました。道は若干雪が残っており、日陰は凍っている箇所がありました。スピードを出さなければ夏タイヤでも危なくはありません。

大沼は凍っていてワカサギ釣りでにぎわっていました。

アイスバブルも見えました。

赤城山頂駅跡

アイスバブルも見た所でいよいよ本題です。

赤城の大沼を過ぎて70号線と16号線が交わったドンツキに「赤城山頂記念館サントリービア・バーベキューホール」というレストランがあります。その建物の裏手に鉄道跡・駅跡があるのですが、最近まで知りませんでした。

この中々趣のある古い建物がかつての山頂駅です。

ここが乗降口でしょう。だいぶ朽ちていますが、雰囲気が残っています。

駅の建物をまじまじと見るといつ崩れてもおかしくないほどの朽ちっぷりです。どこかノスタルジックでどこか儚い雰囲気が漂っていてたまりません。

ドラ○もんに「人間出没中」と書かれたちょっと意味が分からない看板が独特な世界観を表しています。

利平茶屋駅と赤城山頂駅を結ぶ赤城登山鉄道は、1957年から東武鉄道により、運航が開始されました。 赤城山の観光開発が目的でしたが、わずか11年後の1968年、廃止となりました。 山頂駅は「赤城山頂駅記念館サントリービア・バーベキューホール」として営業していますが、今年になって国の登録有形文化財に指定されたことから、再び脚光を浴びています。 山頂までの高低差は360メートル。約900段の急勾配の石段は、格好の廃線歩きのコースになっています

Googlemapのコメントより

登録有形文化財に指定されたというのは適用範囲はどこまでなんでしょうね。ぜひともこの山頂駅の建物もなんとか保存してほしいものです。

古い案内板によると、赤城山は古来から山岳信仰として崇められており、ここから300mほど下ったところに御神水と呼ばれる湧き水があるそうです。御神水で身体を清めると無病息災とのこと。きっとHPが全回復するのでしょう。今回の装備ではこの雪のある急傾斜を下るのは危険なので御神水は次回ということで。

利平茶屋駅跡

次に向かったのが麓の駅「利平茶屋駅跡」です。

遠回りになりましたが、いったん赤城山を下りて桐生のほうから登りました。

現在は利平茶屋森林公園というロッジがあります。ここには夏場に一度来た事があるのですが、その時は結構家族連れでにぎわっていました。

冬場は営業していないので閑散としています。

ロッジを登っていくと開けた場所「ふれあい広場」が現れます。どうやらこの大きな東屋が利平茶屋駅跡のようです。

乗降口らしき階段が見えますね。辺りに木が生えてしまっていて、廃線からの時間経過が感じられます。Googlemapのコメントによると廃線は1968年なのでちょうど半世紀経っています。

自然に飲まれそうになっている人工物が放つ魅力。なんだか今にもタイムスリップしそうです。

廃線歩きとみられる足跡が二人分ありました。物好きはどこにでもいるんですね。(お前が言うな)

次回はちょっとハイキングして御神水を頂いてきましょうかね。

 

あと赤城山に「 竹久夢二登山展望の地」という碑があり、竹久夢二とは誰なのかと調べてみたらちょっと興味が沸いたので伊香保にある記念館にも行ってみようかなと思っています。

伊香保 観光なら竹久夢二記念館(大正ロマンの森)

パニック症の発症から克服まで

自分は18歳の時にパニック症(パニック障害)と診断され、現在は幸いにもほぼ克服できました。そこで、克服までの道のりやパニック症を抱えている方へヒントを与える事ができればと思って記事を書きます。自分の経験と自分なりの考えですが、参考になれたら幸いです。

不安に襲われた日

あの日は忘れもしません。2012年3月2日の夕方の事でした。夕食前にリビングでテレビを見ているときでした。

たしか2日後に高校のスクーリングがあり、面倒だけど絶対に出ないと単位が取れないなと焦っていました。単位が取れなかったら1年やり直しになりますから、当時の自分としてはそれなりに切羽詰まっていました。当時の自分の価値観としては1年の出遅れは相当な痛手と思っていたのです。今思えばどうでもいいことなんですけどね。

不安の津波

そんなこんな思っていたときです。文字では表せないほどの大きな不安が襲ってきました。例えるなら”殺される寸前の人”が感じているそれといった所でしょうか。殺される寸前の人の気持ちは分かりませんが、それと同等の不安と恐怖を感じていると思います。

不安が不安を呼びますます不安が増大していきます。いてもたってもいられず、苦し紛れに廊下に出ました。軽い頭痛を伴いながら猛烈な不安に襲われ、足の裏が地に着いていないような感覚がします。それと同時に猛烈な閉塞感を感じ、これまた苦し紛れに家の外に出ました。

一向に不安は増すばかりで、頭痛薬を少し多めに飲んでみました。多少は誤魔化せたかもしれませんが、その後も不安の波にのまれていました。

トラウマ化

「いったいどうしてしまったのだろう。待てよ、この感覚は過去に何度か経験した事あるぞ。」授業か何かでスピーチをしたときや、授業中に同じような不安に襲われた経験があったのです。

しかしその時はその場限りで不安は治まっていました。そこで気づいたのです。不安がトラウマ化してしまったんだと。「また不安になったらどうしよう。」と不安になってしまう予期不安と呼ばれる症状です。

ほとんどの心療内科は1ヶ月待ち以上

一晩寝て次の日の朝起きたら、思いのほか頭はスッキリしていました。しかし、発作が起きた夕べの事を思い出したとたんにまた不安に襲われました。これはダメだと思って母親に心療内科に電話してもらったところ、1ヶ月以上待ちという所だらけでした。

さらに、20歳未満は診てくれないという謎ルールがある心療内科が結構あるんです。幸い少し遠いところで1件だけ3日後くらいに予約を取れるところがあり、藁にもすがる思いでそこを予約して行きました。

いざ心療内科へ

人生で初めて行った心療内科のロビーは患者が多く、常に会計待ちの人でいっぱいの総合病院のロビーと大差ありません。何より患者数の多さに驚きました。

初診だったので時間をたっぷりとってくれて色々と聞かれました。診てくれた先生は結構若い人で事務的な印象だったのが不安でした。当時の診断結果は「パニック障害」でした。
最近は「パニック症」に改名されたようですね。症状の程度は色々あるので厳密には障害とは言い切れず、患者への配慮もあり、「障害」から「症」になったそうです。

最初に処方された薬はパキシルのみでした。いわゆる選択的セロトニン再取り込み阻害薬というもので脳内のセロトニン濃度が下がらないようにする薬です。1週間飲みましたが、自分の場合は症状は全く改善しませんでしたし、副作用も全くありませんでした。

次に追加で処方されたのがコンスタンという薬でした。これはベンゾジアゼピン系の不安薬でこれは抜群に効きました。不安時に飲むのですが、30分後には不安はなくなります。副作用としては、少し注意力が鈍ることです。といってもそんなにひどい訳でもなく、寝起きにニュースを見ながらコーヒーを飲んでいるときの脳が目覚めきっていない時くらいの感覚です。

パニック症の症状

具体的にパニック症の症状を例に挙げます。

不安の発作

突然不安が発作的に襲われます。タイミングは様々で、小さな不安を感じてそのまま大きな不安になって発作というパターンや、何の前触れもなく不安発作が起こることもあります。人によっては発作が起きやすい時間帯があったり、季節の変わり目悪天候時などに発作が起こる可能性が高まります。

予期不安

不安の発作は恐ろしいものです。自分の意思とは関係なく、生物としての根本的な機能である恐怖が暴走するのですから。「また不安になるかもしれない」と不安に対して不安になることが予期不安です。

広場恐怖

広場恐怖というと広い場所というようなイメージで語弊がありますが、正確には「逃げる事ができない場所での恐怖」といいましょうか。

例えば、エレベーターの中、レジの行列、人ごみ、高速道路、渋滞など、直ぐに逃げられないと感じると不安が起こり、そのまま発作に陥るというパターンが多いです。それを予期不安することで広場(逃げられない場所)に恐怖を抱くのです。

抑うつ感

不安に支配されている状態では全ての行動に制約がかかり、不自由を味わいます。なんで普通にできないんだろうと憂うつになります。

 

そのうちに調子がいい時までも、どうせ直ぐに不安になるというのになんで調子良くなってるんだろうなどと思うようになってしまいこともあります。調べてみると、パニック症はうつ病も一緒に発症するケースが割りとあるようです。

自分の場合はひどい時は抑うつ感はありましたが、幸いうつ病までには至りませんでした。

パニック症の原因は?

パニック症の不安発作が起きる前の生活習慣を振り返ってみると、不摂生をしていることを思い出しました。


当時、通信制高校に通っていた自分は2週に1回のペースでしか通学がなく昼間は殆ど引きこもりでした。当時やっていたバイトは夜勤だったので夜遅くまで起きて、昼間はろくに太陽の光を浴びないという毎日。食生活はファーストフードやジャンクフードばかりを食べていました。不安発作が起こった当時は2週間ほど晴れ間がなかったため、様々な要因が重なってしまったんだなと思っています。

心療内科の先生に患者数は増えているのかと聞いてみた所、やはり年々増えているらしく先生曰く「ストレスの多い社会だからね」との事。しかしこの答えには違和感を感じました。なぜならストレスの感じ方は相対的なもので、なんだかんだいつの時代もストレスの相対量は同じだと思うのです。しかし患者は順調に増えている。これは何か根本の原因があるのでは無いかと思いました。

その後、栄養学に詳しい方と話す機会があり、近年の栄養事情を教えていただいた際に、鬱などの精神疾患は栄養失調が原因である可能性が高いという話を聞きました。

パニック症を患う前の生活を振り返ってみて確信しました。確かに栄養失調だったと。しかも運動不足だったし日光も不足していた。

本来人間の体というのは自律的に正常に動作するように設計されています。なので、ある日とつぜん精神だけが壊れてしまうなんて事はまず無いはずです。人間に何らかの不具合が起こる際は殆どが外的要因によるものであり、外的要因としては遺伝や過度なストレス、以外と盲点かもしれませんが栄養失調も大きいのです。

克服できました

同じくパニック症を患っている人に「パニック症って良くなるの?」と聞かれたことがあったので自信を持って答えましょう。良くなります。

治ると言い切りはしません。というのも治る治らないの定義が難しいのです。自分は一度、パニック発作という恐怖を覚えてしまった以上、ある一定の負荷が掛かれば不安の波に飲み込まれると思います。いわゆるトラウマ状態ですが、トラウマが病気かと言ったら、そうでない場合もあるしPTSDと呼ばれる場合もあります。要は程度の問題なのです。パニック症では不安発作の程度を軽くし、病気でないレベルにまで回復する事が克服するという事ではないかと思っています。

今の自分にはパニック症になる以前の自分より不安の耐性が上がっている自信があります。RPGで例えるならば、毒を食らっている状態がパニック症にかかった初期の頃だとしたら、今の自分は体力の最大値が上がった状態とでもいいましょうか。さらに不安に対処するスキルまで備わっています。

何度も何度もパニック発作を食らっているとだんだん対処が分かってくるのです。そこで自分なりの対処法を書きたいと思います。やっている事はものすごく簡単ですので、「そんなの気休め以上の効果ねえよ」と思うかもしれませんが(自分も当時不安の対処法をググリながらそう思っていた)とにかく参考にしてください。

症状を認める

自分がパニック症と診断された当時は、自分がパニック症であることを疑っていました。頭では分かっているつもりでも心の底から信じられず、自分に限ってそんな事はないというバイアスが中々取れなかったのです。その状態では「自分はパニック症ではない」という理想と、パニック発作に襲われる現実とのギャップによって余計に辛い思いをしてしまい、一向に良くなりません。

克服に一歩近づくためには、まず自分がパニック症であることを認め、自分を労わってあげましょう。

栄養を取る・生活習慣を正す・運動習慣を付ける

精神的な不具合は基本的には自律神経の乱れであり、乱れには全て原因があります。先に挙げた栄養失調、日光不足、運動不足、睡眠不足、生活習慣の乱れなどですが、自分の環境を思い返してみてください。ちゃんとご飯は食べていますか?運動はしていますか?

パニック症に限らず、心を病んでいる方には絶対に不摂生があると思います。

自分は以下の事を実践してみました。

  • 起きる時間、寝る時間、食事を取る時間を大まかに決める
  • 栄養をバランスよく取る(食欲がない場合はサプリメントなどを利用する)
  • 朝起きたら太陽光を浴びる。
  • 運動をする(軽いウォーキングで十分)
  • 無理しない

以上のことだけ意識するだけでずいぶんと心が楽になります。「そんなの気休めだろう」と思うかもしれませんがこれが本当なんです。これを実践して調子よくなった経験から、いかに不摂生にやられていたのかが良く分かりました。

不安・ストレスを遠ざける

もし明確な不安やストレスがある場合は、遠ざける努力をしましょう。

極端な例ですが、仕事が辛いなら仕事を辞めるとか。人付き合いがストレスなら人付き合いを避けるとか。ストレスの貯蓄量が多いと不安の耐性も下がります。ともかく不安を根本から避ける事は重要です。なぜなら、不安は真っ向から立ち向かっても敵わないようにできているからです。世の中の全ての生物は不安によって危険を回避し、今を生きています。不安に敵わないのは当たり前なのです。

パニック症というのはその不安という機能が正常に動作しなくなった状態ですので、不安を真っ向から相手にするよりも逃げる方向に努力をした方が賢明です。

もし不安発作中に入ってしまった場合は、不安から逃げる事はできません。辛いでしょうけどコンスタンなどとんぷくの薬を飲んで発作がおさまるまでじっと耐えましょう。
それでもネガティブになる必要はありません。今回はだめだったけど次発作が起こりそうな時に遠ざけてやろうと思ってください。

呼吸で自律神経をコントロール

人間は交感神経と副交感神経を意識的にコントロールすることはできませんが、唯一間接的にコントロールできる要素があります。それは呼吸です。

息を吸うときに交感神経が働き、息を吐くときに副交感神経が働きます。
余談ですが「ため息」は副交感神経を刺激させてリラックスするために無意識に行う脊椎動物特有の行動です。うちの犬もため息をつきます。

不安を感じているときは呼吸が浅く速くなっているはずです。複式呼吸だの難しい事は言いませんので、呼吸は穏やかに深くゆっくりする事を意識しましょう。

呼吸を意識的にコントロールすれば、交感神経と副交感神経を間接的にコントロールでき、また間接的に心もコントロールする事ができるのです。そこまで至るのには熟練が必要ですが不可能ではありません。

最後に

自分はパニック症と診断されたあの日からそろそろ7年たちます。これだけの年数抱えていると、もう不安に慣れてしまうものです。

ここまでいったら発作になるなという限界点が分かり、それを前提にした行動を取る事ができます。初期の不安では呼吸をコントロールすることで抑える事ができるようになりましたし、発作中に抑えられるくらいまで不安のコントロールが上達しました。最初の頃は「どうしようかどうしよう」と不安に流されるままで、初期の小さな不安ですら恐ろしかったものですが、今では「ああこれなら大丈夫」くらいしか思わなくなりました。

何もかも手探りで、コツなどはありませんが、パニック症と向き合い正しく付き合っていくことで、ここまで克服できるということを言っておきます。

自分はパニック症に感謝している部分もあります。パニック症のおかげで色々な経験をしましたし、価値観も広がり、不安のコントロールの術を学びました。おそらくパニック症を経験していなかったらもっとポンコツな人間だったに違いありません。もしかしたら、あの頃のポンコツな自分への贈り物だったのかもしれません。

ここまで一患者の例ではありますが、こんな人もいるよと思っていただければこの記事を書いた甲斐があります。

憧れのリンホフテヒニカ?「JollyLook」を使ってみた

JollyLookとはintax miniフィルム互換のレトロな風貌のインスタントカメラです。クラウドファンディングによって集まった資金で開発されました。

フィルムカメラ初心者なのですが、ついつい「射影機」にそっくりなリンホフテヒニカ型の外観に惹かれて買ってしまいました。フィルムは別売りです。

下記の記事も合わせてどうぞ。

JollyLook シャッターゴムの取替え シャッターが完全に落ちない問題を改善

箱を開けると下記のものが入っていました。

  • 本体
  • JOLLYLOOK MINIの露出対応表
  • 取扱説明書
  • シャッターの替えゴム
  • つっかえ棒

取扱説明書と露出対応表は英語なので読みづらいと思いますが、日本語の説明動画もあるのでご安心を。

カメラを展開する

カメラの本体をボタンを押しながらストラップを引っ張って開けます。

カメラを立ててレンズボードを任意の所まで引っ張ってつっかえ棒をします。レンズボードの引き出す長さによってピントが合う距離が変わります。

カメラの設定

レンズボードですが、左のダイヤルでF値、左下がシャッターボタン。右下のM Aのスイッチがシャッターモード切替です。

F値

F値はPH, 8, 11, 16, 22, 32, 45, 64があります。明るさなどの条件に応じて切り替えます。

シャッタースピード

ファインダー上部の錘でシャッタースピードを切り替えられます。錘有りで1/150、無しで1/250です。

シャッターモード

ファインダーを引き出した状態でモードをMにすると、シャッターが2段階になります。1度押すとシャッターが開き、もう一度押すとシャッターが閉じます。光量が少ない環境やピンホール撮影の際に使用します。モードAは通常のシャッターです。

フィルムをセットして撮影してみる

カメラ後部のストラップを下部にあるボタンを押しながら引っ張って明けてフィルムをセットします。

ハンドルを回してフィルムの蓋を取ります。

ファインダーをカチッと言うまで引っ張り上げて、シャッターボタンを押すとシャッターが落ちます。カードボード製なので丁寧に扱いましょう。

適当に部屋を取ってみました。

f/16だと結構暗いですね。45くらいだとちょうどいいかも。なんて考えるのもなかなか面白いです。

撮影後にフィルムを取り出す際にハンドルを回しすぎると次のフィルムの薬液のカプセルが破壊されてしまうので、ハンドルを回し過ぎないようにしましょう。こんなもんかなと思ったら、軽くフィルムを引っ張ってみてください。引っかかりがあるようだったら回し足します。

シャッターも紙と輪ゴムでできているので摩擦が大きく、上手くシャッターが落ちない場合があります。そんな時は無溶剤のシリコンスプレーを可動部に少し吹くといいでしょう。ただし、556などの油性のものや溶剤が入っているものは紙がヘナヘナになってしまうので吹かないでください。

いろいろ設定を変えて晴れの日の外を撮ってみました。5枚目で成功。

距離的には∞ですが、∞だとピンボケなので2.5mで撮ったらちょうど良いです。冬の晴れの日のF値はf/45がちょうど良いですね。

露出対応表

雰囲気で訳しました。

コンディション 参照番号
めっちゃ明るくてぎらついた水や雪 10,11,12,13
晴れの日 8,9,10,11
晴れてるけどちょい曇り 8,9,10,11
曇ってるけど明るい 6,7,8,9
曇り 4,5,6,7
めっちゃ曇り 1,2,3
夕方、夕日、室内だが晴れていて窓の近く 0
シャッター F値
8 11 16 22 32 45 64

1/150
錘有り

0 2 4 6 8 10 12

1/250
錘無し

1 3 5 7 9 11 13

フィルムカメラのロマン

鮮明な写真を撮りたいのなら最新のデジタルカメラを使えば良いし、キレイな風景やモノを撮りたいのであれば、キレイな風景やモノがある所に行けば良い。しかし皆がそのような啓蒙的な写真を撮っていたら、インスタグラムには「ラテアート」と「パンケーキ」と「青空」の写真で埋め尽くされ、それらは陳腐化していく。

最近はキレイな夕日の画像を撮った所で何も感じない。なぜならもっと良い写真なんてネット上を探せばいくらでもあるのだから。デジタルとインターネットの時代においては、撮る写真は全て二番煎じ以下でしかない。皮肉にもキレイな画像ほど陳腐化している。

この陳腐の世界から抜け出し、唯一無二の作品を撮るのならアナログで撮るという選択肢がある。デジタルの時代だからこそ、アナログのフィルムカメラが再評価されてきている。と思います。

“Adobe税”増税で地味に痛い

「【重要なお知らせ】サブスクリプション価格変更についてのご案内」というメールが。えっ、Adobe税増税するの!?

自分は「Creative Cloud コンプリートプラン(5,378 )」を使っているのですが、2019年2月12日の価格改定後に ¥5,680(税別)になるそうです。 次回更新日に改定後の価格が反映されるとの事ですが、自分の次回更新日は2019年10月01日でちょうど消費税増税と同じ日なんですよ。タイムゾーンの関係で8%か10%どっちで計上されるか分かりませんが。

消費税も考慮して値段を計算すると5,808円から6,248円の440円/月の経費増になります。フリーランスのWebコーダーにはAdobe税の増税は地味に痛い。消費税の増税は我々庶民ほどダメージがでかい。。

追記:Google税も増税するらしいです。

平素よりお世話になっております。Google では 2019 年 4 月 2 日より、ユーザー 1 人あたりの正規料金を、G Suite Basicが月額 600 円から 680 円に(月額 5 米ドルから 6 米ドルに)、G Suite Business は月額 1,200 円から 1,360 円(月額 10 米ドルから 12 米ドル)へと変わります。今回の料金改定は全世界に適用されます(一部の地域については市場調整を行います)。

G Suite Enterprise は今後も同じ料金でご利用いただけます。

地味に痛い。

2泊3日で山形県に遊びに行ってきた

今年初の寒波がやってきた12月の山形。天気予報では決行日である12月7日に雪の予報が出ていた。一筋縄では行かない旅になりそうな予感を感じながら、スキー場へ行くような装備・服装で雪の山形に挑んだ。

7日7:00に友人の奥寺さん宅へ向かい、念のためタイヤチェーンなど荷を積み込む。近所のマックで朝を済ませて北関東自動車道に乗る。個人的に真直ぐ引かれた高速道路はあまり好きではないが、下道で向かうと5時間弱の長旅になってしまうため、やむなく高速を利用して3時間弱で山形に着いた。

蕎麦処みねた

昼飯にラーメンを食べようという事で、「蕎麦処みねた」でラーメンを頼んだ。蕎麦屋さんが作るラーメンはうまみが詰まっためんつゆベースのスープで、弾力のあるラーメンの麺と以外と合っていて美味しかった。

奥寺さんの方は少々口に合わなかったようで、逆に自分の味覚を疑われてしまった。彼は相当な食通で、ラーメンと蕎麦のハイブリットのような変り種は得意ではなかったようだ。これは好みの問題であり仕方ない。そもそもこの世に万人に受けるものなど存在しない。

山形城跡と済生館

「山形城跡(霞ヶ城)」は山形市にある斯波兼頼が築城したと言われる城で、日本100名城に選定されている。現在は公園になっており、敷地内には野球場、武道館、体育館、美術館も併設されている。本丸の公開は期間限定(確か春から秋かな)で今回は立ち入る事ができなかった。

続いて、山形城跡の敷地内に再建された「済生館」へ。明治時代の医者で、ローレツ先生という外国の医師を高給で招いていたようだ。看護師の給料が2.5円程度が、ローレツ先生は500円だとか。なんという格差。

奥寺さんが日本刀があるんじゃないかと敷地内にあった美術館も見ることになった。展示物は化石や鉱石や縄文時代の土器などが殆どで日本刀が1本も無くて残念だった。

しかし落ち込んでいるところ珍しい展示物を見つけた。それはテンサラバサラ。この若い子のアクセサリーのようなものを1年に1度見ると幸福をもたらすという伝説がある。それを人生で初めて山形の美術館の片隅で見つけたのだ!

巨大なアメジスト。なんだかイチジクのようです。腹が減ってきていたので溢れんばかりに餡をたっぷり抱えた饅頭にも見えていました。

つるおかユースホステルへ

美術館を出た頃にはもう辺りは暗くなっていた。山形市から鶴岡市までは車で約1時間半。このとき日本海側に大きな低気圧があった。山形市は内陸部だが、鶴岡市は日本海側。そのため道中の峠で雪が降り始め、気づいたら路面が氷と積雪に変わっていた。

つるおかユースホステルのペアレントさんが丁寧な人で夕食に駅前の居酒屋さんを紹介してもらい、3人で一緒に銭湯にも入った。

つるおかユースホステルは古くなかなか雰囲気のあるところだった。1階が広々とした空間が会議室になっており、真ん中にはハウルの動く城に出たような大きな暖炉があり、ピアノも置いてあった。

三瀬海水浴場と白山島

翌日の朝、つるおかユースホステルを後にし、車で5分程度のところの海水浴場へ向かった。せっかく海に来たんだから海を拝まなくては。

海は低気圧の影響で荒れていた。こんな海もまた一興。

玉川寺

道中の水墨画のような銀世界に感動しながら、三川町東郷小学校を寄って玉川寺へ向かった。

三川町東郷小学校は最近建てられた木造建築の小学校である。コンクリートが主流なのにいまどき木造は珍しい。まるでログハウスを思わせるような造りになっている。校庭には案内板があり、どうやら一般開放しているようだった。

玉川寺は日本庭園が綺麗だそうで。入館はせず、門をくぐった先ですでに見事な庭園が拝めたし時間も迫っていた事もあり、今後の楽しみにとって置くことにした。

羽黒山五重塔と爺杉

随神門をくぐり、石段を下っていく。さらにしばらく歩くと羽黒山五重塔と爺杉が姿を現した。爺杉は樹齢1000年以上と言われており、直径は2mはあろうかというほどの大きな幹は圧巻だった。下から見上げただけでは高さがどれくらいなのか見当もつかないほどだった。

降りしきる雪の中の爺杉と五重塔は幻想的で壮観だった。あたり一面がモノトーンで、まさに水墨画の世界。遠くの雪はゆっくり落ち、近くの雪は速く落ちていく。降雪のおかげで奥行きが感じられ、より一層、爺杉と五重塔のスケール感がリアルに感じられた。

出羽三山神社

五重塔のところから石段で上がって出羽三山神社へ向かうと1時間半ほどかかるというので、車で有料道路を使って上がった。中々趣のある大きな神社だった。

ひがしねベアフットユースホステル

集中力が切れたのでここから画像のみ貼っていく

宝珠山 立石寺

文翔館

上山城跡