法神流の稽古を見学体験させていただきました。

 法神流の稽古を見学体験させていただきました。
https://blogs.yahoo.co.jp/amb_akagi/43940255.html

引用元 https://blogs.yahoo.co.jp/amb_akagi/GALLERY/show_image.html?id=43940255&no=1

渋川にある赤城スポーツセンターに入ると、2Fの方から「エイ」「ヤー」「トー」という威勢のいい掛け声が早速聞こえてきました。
2Fに上がるとこの日は11名の同志が集まっており、二人一組で法神流の組太刀を行っていました。
見学の旨を伝えると、快く法神流の概要について説明をして頂き、体術の巻物のコピーまで見せていただきました。その内容はぱっと見た感じでは大東流のような体捌きのように見えました。これだけのものが残っていると思うとワクワクしますね。これら書物は荒木流や気楽流をやっている方によって復元が試みられているそうです。

早速、先輩方とは別の列で基本的な型の指導を受けさせていただきました。
足捌きは独特で腰を大きく落とし、田んぼの中を歩くように足を上げて移動します。剣の振り方にも独特なものがあって、振りかぶった際に後ろ足を前足のふくらはぎに乗せて、剣の振り下ろしと同時に足を落とすというもの。この動作はかなり体幹が鍛えられます。
田んぼの中を歩くような足の運びはおそらく足場が悪いところでの戦闘を想定しているのではと個人的に思います。
独特な動きは多々あるものの、殆どの動きは合気道の剣術と被るところがありました。

引用元 https://blogs.yahoo.co.jp/amb_akagi/GALLERY/show_image.html?id=43940255&no=2

1時間ほどやって休憩時間中、どうやら法神流の門弟による文書が新しく見つかったそうで、コピーを並べて解読していました。
古文書の解読に詳しい先生がおり、その方によって現代語に解読されていくと、どうやら他流試合の結果をまとめた記録であることが読み取れました。
後で知りましたが、その先生は伊賀の忍者の血筋を引いている凄い人でした。剣だけでなく手裏剣となぎなたの使い手だとか。

法神流の稽古をしている方たちは剣道の高段者だったり、荒木流や気楽流などの柔術家であったり、忍者の血を引く考古学者だったり、30年前に岩間で斉藤守弘先生の下で内弟子をしていた方もいらっしゃって驚きました。とにかくもう凄い武術家達の集まりでした。

いい体験をさせていただきました。また機会があれば稽古に参加させていただこうと思います。ありがとうございました。

ニス無しの木刀の手入れ・保管の注意点

椿油などの植物油でクリーニング・保湿

木製武器は、植物性の油を用いてクリーニングを行います。植物油には椿油やオリーブオイル、レモンオイルなどがありますが、どれも効果は大差ないかと思われます。植物油を染みこませる事によって保湿されるため、湿度変化からくる歪みや割れも予防できます。

ヤスリ掛けをする

木製武器は打ち合っていると徐々にささくれてきます。最初のささくれは軍手などでなぞると引っかかる程度の微妙なものですが、これを放置して打ち合っていると、いつかパキンと大きな割れが生じます。割れや怪我を予防するためにも気になったらヤスリ掛けを行い、その後、植物油で磨きましょう。

木刀は立掛けない

木製武器は長時間力が掛かったまま放置していると徐々に歪んでいきます。立掛けているだけでも自重によって数ヶ月で歪みが発生する個体もあります。保管の際は必ず水平にしましょう。

製薬会社が”うつ病”を啓発っておかしくない?精神疾患が増えている4つの理由

年々増え続けているうつ病

厚生労働省「患者調査」によると、「気分[感情]障害等」を患っている人数は平成8年に43.3万人だったのが、平成29年では127.6万人と3倍近く増加している。

「気分[感情]障害等」の一つである「うつ病」が増えている原因として、社会情勢や近年のストレス社会を例に挙げられることが多いが、原因はそれだけでは無いと思う。なぜなら人間は常にその時代ごとに苦労をすることはあっただろうし、幸福や不幸の価値観もその時に応じて変化してきたはず。現代だけが精神を病みやすい社会になってきているという説明には限界がある。

うつ病が増えている原因を4つ考えてみた。

1.製薬会社による うつ病の啓発活動の結果

このCMの製作元は「グラクソ・スミスクライン(GSK)」というイギリスに本拠地を置く大手グローバル製薬企業である。このCMは「うつ病啓発キャンペーン」の一環で制作された物のようだ。同キャンペーンでは「うつ病 小冊子」を配布し、専用フリーダイヤルを設けて4万件近くの問い合せを受けたそうだ。おそらく多少心当たりのある程度の人々が不安を煽られて問い合せをしたのだろう。

「一連の啓発活動の結果、広告認知者ほど”うつ病はだれでもかかりえる病気”、”適切な治療で治る”という理解を示した」というレビュー調査をわざわざ行っている。

GSK うつ病啓発でアクセス15万件
2003/03/04 23:00

グラクソ・スミスクライン(GSK)は3月4日、全国主要新聞とテレビCM(関東、関西地区)で昨年9月から12月までに行った「うつ病啓発キャンペーン」の結果を発表。期間中、3万9601件の問い合わせがコールセンターに寄せられ、専用インターネットサイトには11万7575件のアクセスが記録されたことが分かった。キャンペーンは、うつ病に対する誤解や偏見をなくし、早期診断を促すことを目的に実施。製薬企業によるこうしたうつ病に関する大規模キャンペーンは日本で初めての試みという。期間中、専用フリーダイヤルを開設し、希望者に「うつ病 小冊子」を提供。同時に、うつ病に関する詳しい情報を提供する専用インターネット「こころのくすり箱」も開設した。モニター調査も並行実施。啓発広告によるうつ病の認知、理解度やイメージの変容、啓発広告の印象などについて約6000人を対象に実施したところ、広告認知者ほど「うつ病はだれでもかかりえる病気」「適切な治療で治る」と、理解が深かった。一方で、多くの人が、うつ病の治療で医療機関を受診することに対して「特別なことだと思う」と回答。うつ病治療は依然として敷居が高いことがうかがえる。

https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=27841

この記事は「うつ病啓発キャンペーン」の半年前の記事で、2000年に発売したパキシルが順調に売上を伸ばしているという内容のもの。医療関係者や株主等からしたらパキシルは「大型製品に成長した」製品であり、「順調に売上を伸ばしている」喜ばしいニュースなのだ。

GSK 「パキシル」01年売上高120億円と好調に推移
2002/4/10 00:00

 グラクソ・スミスクラインが2000年11月に発売した抗うつ剤「パキシル」(一般名・塩酸パロキセチン水和物)は、年間売上高が100億円を超える大型製品に成長した。01年(1〜12月)の売上高は120億円(薬価ベース)となり、順調に売り上げを伸ばしている。

 「パキシル」は99年に明治製菓が発売した「デプロメール」(藤沢薬品工業が「ルボックス」で並売)に続く国内2番目のSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害剤)。うつ病、うつ状態に加え、国内で初めてパニック障害の適応が認められている。発売時期はデプロメールより約1年間遅れたが、直近の売上高はすでに100億円を超えた。

 海外での10年以上にのぼる販売経験ですでに安全性、有効性が確立しているほか、「1日1回投与」で効果を発揮する特徴が医療現場の支持を得たようだ。マーケティング本部中枢神経領域部の中川恒司プロダクトマネジャーは「(うつ病患者が増加するなかで)パキシルが投与される機会が増えていくという感触はつかんでおり、売り上げは今後も着実に伸びていく」と予測している。

 今後は内科など専門科以外にもプロモーション活動を展開し、さらなる売り上げ拡大をねらう。また、すでに海外で認められている適応症を中心に追加申請の準備も進めている。現在、強迫性障害(OCD)と社会不安障害(SAD)に関するフェーズ2を実施中。同製剤は90年に英国で初めて承認されて以来、現在、世界100か国以上で使用されており、投与患者は推定8000万人以上。全世界の売上高は01年(1〜12月)で18億5700万ポンド(約3565億円、最新の為替レートで計算)。

https://nk.jiho.jp/article/p-1226550375359

SSRI系の薬には依存性があるため急にやめることはできない。SSRI系の薬を止める場合は徐々に減量していく必要があるため、一度患者に飲ませてしまえば、決められた用量を飲み続けなければならないので継続的に売上が得られる。

「うつ啓発キャンペーン」は、うつ病に悩む人々の為ではなく、パキシルの大きなマーケットを見据えた製薬会社による私腹を肥やすためのキャンペーンだったのだろうか。このような市場拡大を目的とした啓発活動のことを「病気喧伝」と呼ばれているが、このような病気喧伝はシオノギ製薬と日本イーライリリー株式会社でも同様に行われている。

2.行き過ぎた健康志向

巷には行き過ぎた健康志向や誤ったダイエット方法の情報が溢れている。例えば、とあるヨーグルトのCMではキャッチーなリズムとともに塩・糖・脂を悪者と見立てているが、いずれも人間が生きるのに必要な栄養素だ。

にはミネラルが含まれており、減塩しすぎるとミネラルの摂取量が減ってしまい様々な症状が出る。食事によって摂取したたんぱく質はカルシウムとビタミンCと胃酸によって、グルタミン、フェニルアラニン、トリプトファンなどが生成される。そこからミネラル・ビタミンによってドーパミンやノルアドレナリンやセロトニン、メラトニンなどが生成される。ミネラル・ビタミンが不足すると、それら神経伝達物質が十分に生成されず、精神疾患の要因となる。

質が不足すると低血糖になり、脳に栄養が行かず眠気、イライラ、時にはうつっぽくなる事もある。血糖値はインスリン、ノルアドレナリン、コルチゾールなどのホルモンで一定値が保たれているが、高血糖時は血糖値を下げるためにインスリンしか出ないためそれほど精神に影響は出ないが、低血糖時には血糖値を上げるべく、交感神経を刺激する様々な種類のホルモンが分泌されるため、イライラ、不安感、動悸、頭痛などうつと診断される症状が出てくる。

肪は細胞膜やホルモンをつくるために必要な原料となっており、コレステロールの4分の1が神経細胞を構成している。全く取らないと細胞を維持する事ができない。

3.誤ったダイエット

以下のアンケートでは、ダイエットの方法として半数が食事制限をしているそうだが、やり方を間違えると逆効果になる。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000492.000007815.html

食事制限によって真っ先に落ちるのは筋肉であり、食事制限によるダイエット初期に減った体重は大体筋肉が落ちている。それは痩せたわけではなく、足りない栄養素をカバーするために筋肉を削ってエネルギーに回しているだけであって、筋肉が落ちるという事は基礎代謝が落ちて太りやすい身体になったということ。

また、最近カップラーメンにしても低カロリーを売りにした商品が販売されているが、カロリーが低ければ太らないというわけではない。例えば、同じカロリー量で肉か米を食べるなら、米のほうが太りやすい。なぜなら米を代謝するエネルギーは肉よりも少量で済むためである。

無理な食事制限によるダイエットは成功率は低いだけでなく逆効果になりかねない。リバウンドで済めば良いが、精神まで壊してしまわないよう注意が必要である。

4.最近の栄養事情

よく最近の野菜は青臭くないと言われる。これは品種改良によるものであり今の野菜は昔の野菜よりも栄養が減っているといわれている。

更に、保存技術の向上によって収穫から時間の経った食材が流通しているが、見た目は同じでも収穫から時間が経った食材は確実に栄養価が落ちている。

時間や手間の節約のために冷凍食品やレトルト食品が利用されるが、それら加工食品の栄養価は著しく落ちている。現代の食事情では普通に食事を取っても栄養失調になる場合があるのだ。それもうつが増加している原因の一つではないかと思う。

精神疾患の治療は主に投薬

シオノギ製薬と日本イーライリリーによるうつ病の啓発サイト「utsu.ne.jp」によると、うつ病の治療方法は「休養と薬物療法」をメインとしており、オーソモレキュラー療法等の他の治療方法は書いていない。

また、うつ病になる原因は「過剰なストレスや過労など」としか書いていない。ちなみに「うつ病の症状チェックシート」を見てみると低血糖症やビタミン・ミネラル不足による症状と被っている項目が少なくない。

うつ病などの精神疾患の診断は、米国国立精神保健研究所で作成された診断マニュアルに基づいて行われている。精神科医である立場上「うつ病の原因は過度なストレスや過労などであり、治療方法は休養と投薬治療である」としか言えず、精神科という畑の上でしか治療方法を提示できない。

実は低血糖症からの症状であったり、栄養失調によるホルモンバランスの崩れであっても、それなりの病名を診断されてSSRI系やベンゾジアゼピン系の薬を処方される。しかし根本的な解決ではないためいつになっても治らない。それら薬は依存性があるため、薬をやめる事もできず、徐々に効かなくなって増量される。

心身ともに健康に生きるためには

テレビでゴーヤが健康にいいと言えばスーパーからゴーヤだけが消えて、ツナがいいと言えばスーパーからツナだけが消える。

健康にいいものを沢山取れば健康になるわけではなく重要なのはバランスである。健康とされる食材を食べるために栄養バランスを欠いていたら元も子もない。テレビ番組に陽動されているような人は健康はなれないだろう。

心身ともに健康に生きるためには、朝早く起きて、日光を浴びて、3食バランスのいい食事を取り、よく運動をして、よく寝ることに限る。そして時にはストレス発散や気分転換のために趣味に打ち込み、友とよく笑い、他人を思いやる。
誰でも知っていて、誰でも思いつくような”ありきたりな事”は見過ごされがちであるが、実はこれが一番重要なことであると、自分自身、パニック症になった事で身をもって実感している。

熊鷹山・根本山を登ってきた

この日の天気は雨。こんな天気なら誰も山なんかに登らないだろう。一人でのんびり自由に登山ができるぞ!ということで、熊鷹山と根本山を登ってきました。

登山道入口に長野ナンバーのマイクロバスが。こんな山奥に。。。なにこれ放置車?気になるがスルー。

登山道マップ

11:40登山開始。ひたすら歩く。

歩く事30分。山の斜面に植えられた木々が整いすぎていて、まるでゲームの背景画像のように見えた。

最初の分岐。左の根本山へのルートは100mほど進むと道がよく分からなくなっていたので右の熊鷹山へのルートへ。

歩く事30分。熊鷹山まで600mのようだが、山の600mは非常に長い。

またまた30分ほど歩くと鳥居が現れた。

鳥居を超えてしばらく尾根を登ったら熊鷹山の展望台にたどり着いた。この天気では展望台からの眺めは真っ白だ。

去年もこの山を同じルートで登った事があったが、去年はこの辺りで体の歪みから左股関節が痛くなっていた。しかし、今年はよく運動をしていたおかげか問題なくここまで来れた。

展望台の熊避けを叩いていると人の声が聞こえた。人数は20人ほどだった。バスの複線回収。しかし、こんな悪天候でも登山をする人が居るとは。

根本山神社境内

少し下ってまた登り、根本山山頂にたどり着く。天気はさておき、百名山にしては見晴らしが悪いように見えるが、おそらく歴史的な背景があって百名山に選ばれたのではと思う。

中尾根を下る。

下る事1時間。ようやく分岐までたどり着きました。登山口まであと700m。

歩きやすくて下りということもあり、11分で登山口に着いた。時刻は15:45。登山時間は約4時間だった。

足尾町の観光案内には載らない「赤い沼」簀子橋堆積場

足尾銅山や鉱毒事件などで知られている足尾町の山中には、鉱山跡から流出している有毒物質を沈殿させるための堆積場がひっそりと身を潜めています。足尾町は銅山跡を積極的に観光地化していますが、この堆積場だけはタブーなのか一般公開禁止となっており、入口には立ち入り禁止の看板があります。

衛星写真を見ると…

Googlemapの衛星写真を見ると足尾町の北側の山中に大きな堆積場があるのが分かります。この堆積場の面積は足尾の町の大半を覆い隠すほど非常に大きなものです。足尾の町の真上に堆積場があるのでもし決壊したらと思うと怖いですね。

よく調べてみると別の堆積場が何度か決壊しているようです。1958年に源五郎沢堆積場が決壊。1966年に天狗沢堆積場が決壊。2011年3月11日、1958年に決壊した源五郎沢堆積場が東北地方太平洋沖地震により再び決壊。

決壊した事による鉱毒被害は報告されていないようですが…

赤い沼を見に行く

タブーかのように観光案内に触れられていない立ち入り禁止の「赤い沼」を肉眼で見る方法はただ一つ。東側にある金龍山を登ります。

通洞駅から東に166m、ヤマザキショップの隣、足利銀行の向かいにある駐車場に車を置いて、通洞駅の北にある蓮慶寺に向かいます。

スチームパンクな配管があったのでパシャリ。

線路を渡って手すりのある坂道を登ります。

坂道を登る途中左手を見ると、堆積場の頭が見えました。

坂を登りきったら右に広場があるので曲がります。パット見行き止まりにしか見えませんが正規ルートです。痕跡から察するに、ここにはお堂か何かがあったのでは無いかと思います。

奥に進むと左手に石段が出てきます。

しばらく道なりに登っていきます。道なんて無いけど。このように庚申塔があるので目印にしましょう。奥に鉄パイプが見えますが跨いで進みます。

進んでいくと祠のようなものが出てきます。首が無いお地蔵さんが牛に跨っています。いわゆる首無しライダー?

隣にある石がモアイ像のように見えるのは気のせいでしょう。

さらに進むと左手に鉄塔が見えます。しばらくこの鉄塔沿いに登ります。

何本目か忘れましたが鉄塔をそのまま辿ると降りてしまうので、左の方(上へ)へ進みます。鉄塔の残骸が落ちてますので、目印として利用しましょう。

岩の尾根を歩きます。↓は振り返って撮影した画像ですが、こんな感じに道ができている所もありました。

しばらく尾根を歩くと。。。ついに現れました!「赤い沼」

案内板らしきものがある。立ち入り禁止なのに誰に向けた案内なのだろうか。。。

ググったらこの案内板の画像を見つけました。どうやって撮影したかは考えないでおきますが。

内容は一般人向けではなさそうですね。

足尾の町の大半を覆い隠すほどの巨大な施設に見てはいけないモノを見てしまった感を抱きながら下山。途中で足尾町を一望できるスポットがあったのでパシャリ。実はこの画像を取った後、下りる尾根を間違えそうになった事は秘密です。

登りは上を目指せばいいだけなので迷う事は無いと思いますが、帰り道は結構間違えやすいので鉄塔など目印を確認しながら気をつけて降りましょう。

おまけ 道中で撮った古い施設の画像

4階建てのビルのような建物は今にも崩れ落ちそうな古い建物ですが、どうやら現役で稼動しているようです。変電所でしょうか?建物に近づくと独特なハムノイズが聞こえます。

金山城跡

金山城の歴史

今に残る金山城跡は、岩松(新田)家純(いえずみ)が文明元年(1469)に築城したものが基礎となっています。その後、下克上によって実質的な城主となった横瀬氏改め由良氏の時代に全盛となりました。上杉氏、武田氏、小田原北条氏、佐竹氏など戦国時代の雄に取り囲まれた中、その攻略によく耐え抜いてきましたが、天正12年(1584)小田原北条氏に捕らわれの身となった城主由良国繁と、その弟長尾顕長(館林城主)の帰還を条件に開城し、小田原北条氏の家臣が城番として配置されました。

天正18年(1553)、小田原北条氏の滅亡と共に廃城となりました。江戸時代には金山「御林」として徳川幕府直轄地となり、現在に良好な城跡遺構を遺す結果となっています。

旧通路

西矢倉台西堀切内の通路を隠すように盛られた土塁状の高まりの下からは、通路の宴席と思われる石列がみつかりました。この石列により、西矢倉台西堀切内の通路よりも古い時期に桟道(かけはしみち)からまっすぐ西へ進む通路があったと考え、発掘調査によって通路を確認しました。この通路は岩盤に丸太をかけて作られた桟道とは異なり、地山を削りだして通路を作っていた事がわかりました。桟道は、急斜面で岩盤が張り出しているため、岩盤を加工して通路を作り、岩盤の張り出していないこの部分では、地山を削りだして通路を作っています。このように当時の地形を利用して通路を造った様子がうかがえます。

西矢倉台西堀切

西城から本丸までの間にある4つの堀切のうち、一番西寄りにある堀切です。この堀切は他と異なり、掘底に石をしいて通路として利用しており、通路の先は桟道へと続いています。また、通路の北側には柱穴があり、北側からの敵兵の侵入を防ぐための柵があったと考えられます。

西矢倉台下堀切

西矢倉台の西下に作られた防御施設で、西城から本丸へ向かう間の二番目の堀切となります。この堀切は大堀きり、物見台下堀切と比べて規模は小さく、堀切は実城に近づくにつれ幅が広く、深く造られています。

虎口

入り口を狭くすることで敵の流れ込んでくる勢いを弱めます。

 

正面は行き止まりになっており、本丸へ向かうには狭い階段を上らなければなりません。

馬場通路・石塁

物見台から東の北側斜面際では、物見台基壇と一体となって造られた幅約1.2mの石塁が約72mの長さで発見されました。この石塁は、来たの長手口からの攻撃に備える防御上の効果があったと考えられます。さらに、長手口から、北側の岩盤を険しく見せるための視覚的効果を意識して、この石塁の上に築地塀が造られていたと考えられます。しかし、調査では丈夫の崩落が著しく、塀の痕跡は発見されませんでした。物見台から東の南斜面際では、石敷きされた通路が発見されました。この通路は物見台と東側に位置する馬場曲輪を結ぶと共に、途中で南下にある馬場下通路へと分岐しています。

物見台

物見台の基壇は、自然の地形に沿って等脚台形に造られており、基壇中央から物見矢倉と考えられる柱穴が4本発見されています。また、物見台基壇からは、釘や火縄銃の弾丸が出土しています。この物見台からは、金山城の周囲が欲見渡せるため、敵(上杉謙信)は、物見台から死角となる藤阿久へ陣を構えました。

物見台からの景色。

馬場曲輪

物見台から、東に向かう通路は、北斜面際の石敷通路を経て、馬場曲輪へと至ります。馬場曲輪の調査では、岩盤を刳り貫いた柱穴が240個以上みつかり、位置関係から建物や柵列があったことがわかりました。また、建物は少なくとも5回の立替、曲輪の生活面は3回の造成があり、頻繁に作り替えを行っていた事も明らかになりました。

大堀切

敵兵が尾根づたいに進攻してくるのを防ぐために造られた堀切は、山城にとって一般的な防御施設です。とくにこの大堀切は、金山城のなかでも最も主要な防御拠点である大手虎口の目前にあるため、長さ46m、幅15m、深さ15mと大規模に造られています。発掘調査の結果、この大堀切は尾根を形成している岩盤を深く掘り下げ、掘底は平らに削られている事がわかりました。また、掘底には長さ7m、高さ1.5m、幅1.8mの石積みでできた畝状の防御施設が1箇所見つかりました。掘底が平らになっていることで、敵兵の侵入経路にならぬよう、障害物として造られたものであると考えられます。

月の池

大手虎口

虎口は、城や城内の各曲輪への出入り口部を指し、「小口」とも書かれます。敵の侵攻から城を守る重要な場所であり、門・柵・塀・土塁・石垣などで厳重に真も割れています。また一方、虎口の「構え」は、「格の高さ」を示す空間ともなっています。

大手虎口南上段曲輪

復元された釜戸。敵の侵入に備える武士達が使用した釜戸です。昔は建物の外に釜戸を設けたことがありました。

井戸跡

日ノ池

日の池は、15m×16.5mのほぼ円形の池です。発掘調査によって、石垣や石敷、2箇所の石組み井戸、石階段などが発見されました。さらに石敷の下からは、日ノ池に通じる通路跡や改修工事が行われた跡、また、谷をせき止め、斜面からの流水や湧き水を貯める構造になっていることも分かりました。

日の池は山の上では希な大池であり、金山城における象徴的な場所のひとつです。ここは、単に生活用水を確保した場所ではなく、戦勝や雨乞いなどの祈願を行った儀式の場所であったと考えられます。

また、水の信仰と関わる平安時代の遺物も発見されており、日ノ池が立地する場所は、築城以前から神聖な場所であったようです。

武者走り

天主曲輪の東側

天主曲輪裏馬場

馬場と言うが、実際は、馬場のある廓である。馬は山城でも伝令用として使われていたので、馬場の必要があるが、音に敏感な動物のため、攻撃にさらされないよう、城廓でも静かな裏側に設けられた。ここには馬薬用としての、さいかちが植えられてある。

金山城石垣

金山城は、全域を石垣で築かれた関東地方では珍しい城である。石垣用材は、金山石が手近にあるので使用したものであるが、大きな石は柱状節理の山麓の根石を山頂、山腹まで持ち上げた大工事である。積み方は、「野面積」で長い石の大きい面を奥に、小さい面を表にしてあるため、別名、「ゴボウ積」とも言われる。断面は、直線的で、緩傾斜し、栗石を十分使用しているために強固である。

本城

金山城の中枢で、水ノ手廓を中心として約1万坪ある。実城とも言い、城主の御殿があったところなので城主を実城殿とも呼んだ。御殿の礎石は、大欅の南方平地に列石状に出土した。武者造り、掘切りは壕内道を兼ねている。本城内に於て、実城、内方、小座、旦那、御入、局等の名称が見られる。

本丸跡

法神流発祥の地

すっかり法神流にはまっています。観光がてら法神流発祥の地と中澤兄弟の村へ行ってきました。

法神流は形式にとらわれ、肉体を鍛錬するにとどまる「お座敷剣法」ではなく、時には肉体の一部も武器にする実践的剣法である。(群馬剣道史 H.10.3.30)

金山宮

車をしばらく走らせているとこのような「兵法 法神流剣術発祥之地 深山入口」という石碑を見つけた。

しばらく細い道を進むと、やはり細い入口があった。下に道があることを信じて坂を下ると、車数台置けるスペースがあった。

二つ鳥居がある。金山宮は左の鳥居。

右の八幡宮/八坂神社の横には新法神流伝来碑がありました。

階段を上がります。

拝殿が現れるがここではない。

階段を上ったらまた鳥居が現れた。鳥居の先には先が見えないほどのながーい石段が。。。

一直線に伸びたでこぼこしたいびつな階段を登るにはいつも以上に神経を使う。脚を踏み外したら一番下まで勢いよく転がって行くだろう。なんて考えて振り返ると足がすくむ。

登る事数分。あともう一息。

351段だそうで。自分が住んでいるところよりも標高が高く空気が薄いためいつも以上に息が切れた。ここがあの金山宮か。

大きな木刀が掛けられていた。

法神流養武館道場跡地

法神流といったら、中澤兄妹を忘れてはならない。法神流養武館道場は中澤家が三代に至るまで開いていた法神流道場で、兄妹は新徴組隊士として江戸で警備の任についた。

園原ダムの東にある集落のメインストリートを走っていると法神流養武館道場跡地の石碑が現れる。

石碑にはこうある。

法神流 養武館道場跡地
大正初期 焼失

初代 中澤孫右衛門
二代 中澤貞祗
三代 中澤栄太郎

親・子・孫・三代に渡り道場を開き、琴もここで剣を習い、江戸時代末期に貞祗と琴の兄妹は、新徴組隊士として江戸市中警護を実施した

中澤兄妹の墓

法神流の兄弟の墓がある。兄の墓には人名がびっしりと彫られていた。門弟の名?
隣には妹・中澤琴の墓が控えめに佇んでいた。何故か中澤琴の墓は2016年11月に作られるまで存在しなかった。

中澤琴を描いたNHKドラマ「花嵐の剣士 ~幕末を生きた女剣士・中澤琴~」(2017年)ではエンドロール中に中澤琴役の黒木メイサが兄の墓に花束を手向けるカットが入っています。

園原騒動 法神流VS神道一心流

楳本法神(富樫政武)の高弟 須田房吉は優れた家系と豊かな財力を持つ家の次男として勢多郡深山村で生まれた。眉毛が巻き上がり、目は澄んだ優美な顔つきであった。しかし性格は傲慢で沈着、物事を裁くのが機敏だった。父も祖父も楳本に習っていた。房吉が法神についたのが18歳の時だった。

文政2年、房吉は前橋・紺屋町に道場を建てる。文政9年3月にはこの道場を義弟・森田与吉に譲り、江戸・木挽町と赤坂の2箇所に道場を持った。

文政11年7月11日、夜の江戸・神田橋上で十数名の襲撃を受け、二人に浅手を負わせて撃退するが、後難を恐れて帰郷する。
帰郷後は海蔵寺門前、明覚院門前に道場を開いた。

文政13年3月、房吉42歳。平川不動へ額を奉納した。これを知った神道一心流 中沢伊之吉は憤怒した。

以下の画像は問題となった額。旧字体で法神流と書いてあり、門弟の名前が列挙されている。

伊之吉の生家は隣村園原村の豪農で、神道一心流開祖 櫛渕虚沖軒(櫛淵宣根)の高弟であり、浅草田原町八幡神社地内に道場を構える山崎孫七郎に入門し、文政12年に免許状を手に28歳にして帰郷後道場を開いた。免許を手に大きい顔をして帰ってきたはいいものの、同じく江戸で活躍していて一足早く額を奉納する隣町の須田房吉に嫉妬を抱いたのだろう。群馬の田舎剣法が東京で学んだシティ剣法に敵うはずがない!と。

房吉の法神流VS伊之吉の神道一心流という隣村同士で勢力争いが起こっていたようだ。

須田房吉を討ち取るべく中沢伊之吉は師である山崎孫七郎を江戸から助っ人に呼び出し、指揮を取らせた。この男は元力士で藤綱という四股名だったが、右ひじを負傷した後に武芸者に転職した。柔術は扱心流、槍は種田流。身長175cm、色黒でゴツゴツした体つきでぶっきら棒で気が荒い人物だった。

中沢伊之吉は須田房吉を自宅へ呼び出した。須田房吉は箱田の森田与吉と南室の石田寿吉を連れて3人で向かった。中沢伊之吉の家に向かうと、30人の門弟に包囲され、石や薪の棒を投げつけられ乱闘になった。含み針によって2人に浅手を負わせ庭に飛び出す。1.8mの塀を飛び越えたが、着地したところが泥田だった。身動きできないところを中沢家の屋根から2人の狙撃手によって狙われ、みぞおちを撃たれ死亡。天保2年(1831年)3月11日の18:00頃の出来事だった。

須田房吉が身を呈して敵を引き付けたおかげで森田与吉は命からがらその場から逃げる事ができた。遭難の後、新田郡徳川郷士正田氏の師として迎えられ、生田氏と名乗った。

中沢伊之吉、山崎孫七郎、門弟らは後に検挙され、それぞれに罰金・禁錮刑などの処分が下った。この件に関わった十数名が勾留されたが、赤痢が流行して大半が死亡した。

ソース:群馬剣道史 H.10.3.30