力に固執してはいけない

自分が修練している合気道は硬い稽古を重視する流派です。受けも仕手も力いっぱいで技をかけ合い、夏場は汗だくで稽古をしていました。

最初は自分はそれこそ本物の技だと思っていましたが、最近はちょっと思う事があります。おそらく師範も同じことを思っているのでしょう。最近の師範の稽古方法はもっと柔らかい強さを求めたものに変わってきています。

硬い稽古は触らずに投げるよりも良い事(掛かる人とそうでない人がいる技は技としての完成度に問題がある)だと思いますが、「力いっぱいやってこその技だ」といつまでも言っていたらそれは力に固執しているだけです。

「気の流れは三段から」と斎藤先生は言いましたが、初心者はまず硬い稽古で技の形を覚えようという意味であり、ずっと硬い稽古をしろと言っているわけではなく、その言葉には硬い稽古の上の段階があることを暗黙的に示しているのだと思います。

力いっぱいとなるとどうしても力みが生じてしまいます。例えば生卵を割らずに掴めない人はまず居ないでしょう。しかしこれを力いっぱい持てと言われたら割らずに持つことは難しい。卵を割ってしまう事が力みに相当する所だと思います。

つまりすべての技には適切な力量が存在していて、その必要な力量を越えた部分は”りきみ”であり、身体を固くしてしまったり、素早い動作の邪魔をする方向に働く力になってしまう。あるいは相手に有利に働く力にもなってしまう。

意地悪な柔術の人と組んだことがありましたが、力を入れると力はすぐに察知されます。そこを力ずくで技を掛けるのでは力と力の争いになってしまい、力はより大きい力で返されてしまします。体格差でこちらが勝る相手なら力比べで勝てるでしょうがその強さには限界があります。そこで必要なのが技であり、脱力も技の一つです。

ある程度体が使えるようになってくると力を使わない方が技がかかりやすい場合があります。それは力みが無くなり最大のパフォーマンスが発揮される領域で筋肉の制御が行われている証拠だと思います。

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