貯蓄は美徳というプロパガンダ

現金主義の日本人

日本人は世界的にみても現金での貯蓄に対して関心が高い。日本銀行による「資金循環の日米欧比較(2017年)」の「家計の金融資産構成(3ページ)」を見ると、日本人は現金預金が51.5%に対し、アメリカ人は13.4%で、逆に投機的な株式等と投資信託は日本人が15.4%に対し、アメリカ人は46.8%となっている。ヨーロッパは日本とアメリカの中間的な値となっている。

日本人は現金預金で資産を持つのに対し、アメリカ人は投資信託株式等で資産を持つ傾向にある。いったい何故日本人は現金預金を好むのだろうか。

明治時代の郵便制度導入

まず日本の貯蓄の歴史について考えてみる必要がある。
貯蓄の概念が出来始めたのは明治時代以降である。明治8年、郵便制度導入にあたり、政府がイギリスの郵便制度を調査したとき、貯金業務も行っていることを学び、郵便貯金制度を導入して国民に貯蓄を推奨した。しかし、江戸ことばに「江戸っ子は宵越しの銭持たぬ」という言い回しがあるように、明治初期の日本には貯蓄という概念が無かった。政府の人間が僧侶に庶民への普及を懇願したところ「日本人の気質に合わない」と一蹴されたこともあった。そこで政府は公務員にボーナスを付与し、それを強制的に貯金させたり、貯蓄の道徳について小学校の教育に取り入れることを発案するなど努力した結果、庶民に貯蓄思想が普及し、貯蓄率が上昇していった。しかし、当初は集まった資金の運用先が見つからなかった。

軍事資金に充てられるようになる

昭和12年に日中戦争が始まると、増加した戦費の財源として軍事公債が発行され、軍事公債を消化するために郵便貯金が充てられた。さらに郵便貯金が奨励され、昭和13年に「国民貯蓄運動」が開始。昭和16年に「国民貯蓄組合法」が法律で制定されてさらに組織化された。国民は住んでいる町村や勤めている職場、通っている学校などで結成された国民貯蓄組合の構成員となり、それぞれの組合で貯金をしなければならなくなった。それと平行して貯蓄で国が豊かになれば強くなれる「お国のためになる」というプロパガンダなポスターなども発行された。

貯蓄が美徳というのは

一番最初に挙げた「資金循環の日米欧比較」の「家計の金融資産構成(3ページ)」のように、日本人は現金預金が多いことが分かる。自分自身、学校や家族親戚に”貯蓄は大切だ”という考えが刷り込まれてきたと肌で感じる。

貯蓄のメリットとして不測の出費に備えることができるとされるが、損得で考えれば、貯蓄という行為が必ずしも最大の効力を持つとは限らない。
例えば、急な病気や怪我などに備えるのだとしたら、貯蓄するよりも生命保険に掛けるほうが、少ないお金で有事の際に大きなリターンが得られる。更に、生命保険控除で節税にもなる。

明治初期にはイギリスに憧れて作った郵政を成功させるためのプロパガンダが、昭和には軍費の財源確保のための貯蓄奨励のプロパガンダがあった。結局のところ、日本人の現金預金主義は政府によるプロパガンダの名残なのではないかと思う。

2001年に確定拠出年金が始まり、2014年にNISAが始まり、ジュニアNISAというものまである。
現在、政府は貯蓄よりも投資を奨励している。

根本山登山コース

群馬県桐生市の根本山登山コースを歩いてきました。

登山コース概要

根本山は近世では根本山神社のご利益を授かろうとする参詣の人々でにぎわったとされ、江戸期にはガイドブックも出版されたほどで、根本山神社までの街道に石灯篭、丁石が今も残されている。

石鴨林道

この林道は一般車両通行止めとなっております。上画像の案内板の200mほど手前には車が10台ほど止められるスペースがありますのでそこに駐車して徒歩で林道へ向かいます。案内板の隣には登山者ノートがあるのでそこに入山時間、人数、名前などを書いて行きましょう。下山するときは下山時間の記入も忘れずに。

熊鷹山

標高は1169mです。山頂には360°展望台が設置されており、周囲の山々を一望できます。この日は曇りで強風と小雨と天候は良くありませんでしたが、視界はそれほど悪くはありませんでした。
記念に展望台の下にあるノートに書き込み根本山方面へ向かいます。


十二山神社

途中に氷室山方面へ向かう分岐がありましたが、そちらは今回のルートとは外れるため、後に周るとします。しばらく歩くと開けた場所が現れました。ここならキャンプが出来そうだなと思いながら進んでいくと、崩れたバラックを4つ見つけ、その奥には2つの御神木に守られるような形で祠がありました。ここが十二山神社のようです。

  

石碑にはこう書いてありました。

石宮奉納碑銘
当根本山神社の御社殿は甚だしく腐食破損し、恐れ多い極みであった。此の度、敬神の念厚い崇敬者有志の浄財を募り、永く風雪に耐える白御影石御社殿を奉納するものである。ここに石宮奉納事業協賛者芳名を兆し顕彰する。昭和61年9月吉日 十二山根本山神社石宮奉納

十二山神社沿革
当社は大山祇命を祀る、古く山岳信仰盛んなころ修験道の霊地として開かれ、人々の深い信仰を集めて来た。

1771年(明和8年)
小野清雲が小石祠を建設

1789年(寛政元年)
幅1.5m 高さ1.8m余りの総ケヤキ造御本殿並に幅5.4m 奥行き4.5mの木造の拝殿を構社により建設

1806年(文化3年)
小野清典が本地仏薬師如来を守る十二神将を納めて以来、十二山と呼ぶ。前面平地に幅14.4m奥行き7.2m木造2階の籠堂が南向きに建つ。

1896年(明治29年)~1927年(昭和2年)
祀職永澤宗次郎親子が居住し、その西北すみに薬師如来と十二神将が奉られる。

1928年(昭和3年)
社殿共全焼。時に黒澤の有志が木造小宮と上屋を奉納。

1986年(昭和61年)9月 石宮奉納

根本山神社は1771年に小野清雲により建設された、大山祇命を奉る神社です。本地仏薬師如来を守る十二神将を納めて以来、十二山と呼ばれるようになりました。木造二階建ての籠堂が建てられ、1896年から1927年まで祀職永澤宗次郎親子が居住していたとのこと。

下の画像は神社近くの落雷で焼け落ちたと見られる木。十二山神社は昭和3年に火災で焼け落ちたとのことですが、落雷という可能性も否定できませんね。

根本山山頂

道中にひょっこり現れた「根本山山頂」という看板。百名山にしては見晴らしはそれほどではありませんでした。おそらく歴史的背景が評価されたのでしょうか。

中尾根コース

時間と体力的に余裕が無かったので、今日は中尾根コースで下山することにしました。登山口の案内板には「中尾根コースは森林浴を楽しみながら根本山に向かう道としておすすめコースとなっています。」とありますが、個人的には道が荒くオススメできません。木々を掻き分けるような道で見通しも不良です。どちらかといえば近道というような印象でした。


目印が途切れているところもあり道を見失いそうになります。


岩場を下ります。


行き止まりで道を見失ったかと思いきや、ロープが上に伸びていました。後ろは崖でロープは枯れ木につながれているだけなのでロープは過信しないように。それと、頭上の倒木に頭をぶつけないように気をつけましょう。←ぶつけた奴


チェックポイントとされている石祠が現れました。登山口までもう直ぐです。


険しい中尾根コースが終わり林道に下りました。この林道を700mほど歩けば登山口です。お疲れ様でした。

石鴨天満宮 群馬県桐生市

県道66号線から県道337号線へ、北上すること数キロ、車がすれ違えないほど狭い道の端にその神社はあります。

少し先へ行くと公衆トイレがあり、その隣にスペースがあったのでそこに駐車しました。

石鴨天満宮(石鴨地域)
昔、この辺りは藤生紀伊の守が治め、その守護神として祀っていたのが石鴨天満宮だという。ある年の大雨で桐生川が氾濫し、「社殿」が流されてしまったといいます。村人達が探した所、現在の梅田町1丁目「梅原地区」で発見、その地に祀ったのを「梅原天神」といい、その後、現在の天満宮の位置(桐生新町・赤城明神の森)へ遷され、後年に、桐生市の繁栄を迎えました。この為、地元では、本家の天神様、分家の天神様というとか。
梅田地区生涯学習推進委員会 梅田町自治会連合会

直ぐ隣には地蔵さんが佇んでいます。

結構山奥の神社ですが、しっかりとメンテナンスされ、絵馬と御神籤が無人販売されています。

階段はかなり急傾斜で濡れていると滑りやすいので帰りは気をつけましょう。

お名前.comの共用サーバSDにphpMyAdminをインストール

お名前.comの共用サーバSDはMySQLは動いているものの、phpMyAdminのようなクライアントツールはインストールされていません。データベースのインポート・エクスポート・編集など一連の操作を行うためには、クライアントツール(ここではphpMyAdminで説明)をインストールする必要があります。

1.サーバーナビからphpMyAdmin用のサブドメインを設定

必須ではありませんが、セキュリティを上げて管理もしやすくするためには、サブドメインで運用サイトと分けたほうがスマートです。まずサーバーナビのコントロールパネルを開きます。

「サービス設定」→「>独自ドメイン設定」からサブドメインを設定します。サブドメインとは、ドメインの前に設定できる自由な文字列のことです。例えば「hogehoge.takuyakobayashi.jp」のhogehogeの部分です。命名に関してはphpMyAdminを匂わせないような文字列に設定しましょう。

サブドメインが作成されると、ftp内にドメインと同名のディレクトリが生成されます。これにより運用中のサイトとディレクトリを分けることができます。また、ドメインとディレクトリが運用サイトと別になると、運用サイトから直接辿りづらくなりセキュリティも若干上がります。

2.phpMyAdminを公式サイトからダウンロード

phpMyAdminを公式サイトからダウンロードします。サブドメイン登録によりFTP上に生成されたディレクトリに展開してアップロードします。

3.サブドメインに対してアクセス制限を掛ける

コントロールパネルに戻り、「Web設定」→「>アクセス制限」でサブドメインに対してアクセス制限を掛けます。phpMyAdminを匂わせないようにアクセス制限を掛けておきます。ただし、この設定で掛かる認証はただのベーシック認証なので、認証としての信頼性はそれほど高くありません。あくまで抑止力です。

4.phpMyAdminの設定

FTPにアップロードしたphpMyAdminにアクセスします。一応ログイン画面は表示されますが、このままログインしようとするとエラーが出てログインできないので、phpMyAdminアップロードディレクトリ/setupにアクセスして初期設定を行います。

MySQLサーバの情報はコントロールパネルの「データベース設定」→「>MySQL設定」から見ることができます。

phpMyAdminアップロードディレクトリ/setupにアクセスし「基本設定」タブの「サーバーのホスト名」と「サーバのポート名(3306)」を入力します。

「認証」タブで「認証タイプ」が「cookie」になっていることを確認します。cookieはphpMyAdminのログインフォームを利用する設定になります。

ダウンロードボタンでconfig.inc.phpをダウンロードし、それをFTPでphpMyAdminのディレクトリ直下にアップロードします。

完了

phpMyAdminをアップロードしたディレクトリにアクセスするとログイン画面が表示されます。

 

二本松と会津若松へ

2泊3日で二本松城と鶴ヶ城と日新館を観光してきました。
この地域は戊辰戦争の激戦地の一つで、燃え盛る鶴ヶ城の城下町を見て自刃した白虎隊や、腰に刀を差しスペンサー銃を構えて篭城戦をした新島八重などが有名ですね。
歴史などについては、ぼやーっとしか知らなかったんですが、今回友達が用事のついでに観光に行こうということで、お供させていただきました。

二本松城

群馬から二本松まで東北自動車道で3時間ほどです。土曜の夕方に出発して途中のPAで一晩明かし、翌朝二本松城へ向かいました。この日はマラソン大会があったようで人が多かったです。

城の前には二本松少年隊の像が設置されています。
銃を構えていたり、刀で突きを繰り出している格好の動きのあるリアルな像です。

二本松少年隊で有名な戦いとして大壇口の戦いがあります。言い伝えによれば戦力自体は劣勢ながらも好戦だったようで、二本松少年隊の錬度の高さがうかがい知れます。

大壇口の戦い http://www.yae-mottoshiritai.jp/ashiato/battle-oodanguchi.html
慶応4(1868)年7月29日、板垣退助率いる新政府軍と、二本松藩士・丹羽右近(にわ うこん)率いる二本松軍が繰り広げた二本松の戦いの攻防の一つ。当時、二本松藩士の多くが白河口に出兵し兵力が不足していたため、やむなく木村銃太郎率いる少年隊に出陣を命じます。戦場となったのは、二本松城の南に位置する大壇口。小高い丘で、奥州街道を北上してくる新政府軍を食い止める、最後の砦でした。
決戦前日、銃太郎は少年隊士を連れて、大壇口へ向かいました。しかし、数え年13歳から17歳までの少年たちには、「命をかけて戦場に行く」という悲壮感はなかったようです。大壇口に到着した少年隊士は、畳を重ねて作った即席の防柵をたてて、敵を待ち構えました。
翌日、新政府軍は進軍してきました。対する二本松軍で大壇口を守っていたのは木村隊長率いるわずか25人あまり。木村隊長の合図とともに、少年隊士はいっせいに新政府軍の隊列めがけて砲撃を開始します。その砲撃は的確で、一時は新政府軍の前進を止めるほどでした。当時のことを、新政府軍の指揮官・野津道貫(のづ みちつら)は「我が軍は正面攻撃では奏功せざることを覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し、辛うじて撃退することを得たが、恐らく戊辰戦争中第一の激戦であつたであろう」とある書物に記しています。
善戦するも、新政府軍の兵力に、少年隊は退却を余儀なくされます。木村隊長が少年隊士に次の指示をしようとした時、一発の銃弾が彼の腰部を貫きました。この傷では城に帰ることはできないと悟った木村隊長は、少年隊士に自分の首を落とすように命じます。少年隊士たちはこれを拒みますが、最終的には少年隊副隊長の二階堂衛守(にかいどう えもり)が介錯しました。
その頃の二本松城下は、すでに新政府軍の占領下にありました。城に残っていた老兵たちが必死の抗戦を続けましたが、二本松城はその日のうちに落城しました。
二本松の戦いでの二本松藩の戦死者は337名、負傷者は71名でした。

近くの資料館にも寄ってみたが、展示品は多くなかった印象です。敗戦した際に新政府に押収されてしまったのでしょうか。

会津野ユースホステルに宿泊

次の日は鶴ヶ城と白虎隊ゆかりの地を巡るため、会津野のユースホステルを予約しておきました。
アットホームで雰囲気が良い所でした。広大な田園の中にぽつんとある感じですがこういう感じも好きです。4G回線も問題なく通っています。

夕飯はわっぱ飯、朝食はペアレントさんが焼いたパンが振舞われました。

おいしかったです。メニューも非常に健康的です。
朝食を食べた後、ペアレントさんに挨拶をしてユースホステルを後にしました。

鶴ヶ城

26日月曜日、鶴ヶ城へ向かいました。
こっちの方の道路は本当にのんびりしていてすごく居心地が良い。平日の地元だったらみんなが我こそはとせかせかしてる雰囲気ですがこちらにはそのような感じは殆どありません。

車を走らせること10分弱で鶴ヶ城付近に到着しました。南側の無料駐車場に止めて徒歩で城内へ向かうのですが、一番近かった東の橋が工事中だったのでぐるっと北に回る必要がありました。
ぐるっと回ったお陰か、鶴ヶ城の北にある道場「武徳館」の存在に気づけました。これもまた立派です。このような立派な道場で稽古をしてみたいものです。

駐車した場所から徒歩20分ほど。城の敷地にようやく入れました。
安定感を感じさせる造りでこれまた壮観です。城の石垣は郭の石垣と違い、無加工で組まれごつごつした印象に見受けられました。

入場券を購入して城内へ。
城内は殆どのエリアが撮影禁止になっていました。簡単に撮影されてしまっては展示物の価値が下がってしまいますからね。
展示物は鉄砲、刀、書物などです。動画や図で白虎隊や城にまつわる事柄が解説されているところもありました。
個人的に展示物の中で一番目を引いたのが刃こぼれが2箇所ある刀でした。腰のお飾りだった刀よりも、実際に打ち合って刃こぼれをしている刀の方が比にならないほど見ごたえがあります。

NHK大河ドラマ「八重の桜」で山本八重役の綾瀬はるかさんが着ていた衣装が展示されていました。

順路の最後は天守閣です。当時の人がどのような景色を見ていたのかがなんとなく想像できそうです。
天守閣から見た飯盛山方面。

飯盛山

鶴ヶ城といえば白虎隊の話が有名です。白虎隊は本来城下を守る予備兵力でしたが、人員不足から前線へと進軍することになりました。2番隊は戸ノ口原で打撃を受け、飯盛山まで退却するも、燃え盛る城下町を見た隊士達は2つの決断に迫られました。鶴ヶ城に戻り戦うか敵陣に斬り込んで玉砕するか。いずれにせよ負け戦であったため、武士の性分を果たすべくその場で自刃をするという決断に至ったそうです。自刃した20人のうち、喉を付いた1名のみが生き残り、そこから白虎隊の悲劇が現在に伝わっています。

隊士達が潜伏した洞窟

自刃の地の手前にさざえ堂という変わったお堂がありました。どうやら中はらせん状になっているようなのですが、天辺には何があるんでしょうか・・・気になりましたが人が多かったので楽しみは次回に取っておくことにしました。


このさざえ堂、横から見ると傾いているんですよね。これがまた良い味出してます。

少し上ると広場になっており、白虎隊士の名前が刻まれた墓が並んでいました。
さらにおくに進むと自刃の地が現れました。分かりづらいですが、画像中央に鶴ヶ城があります。景色は当時と違えど、隊士達も同じ方を見ていたことでしょう。

おわかりいただけただろうか。。。何故かこの画像から中央右あたりに黒いモヤが入るようになってしまいました。
最初はレンズの汚れかと思い、よく拭いてみましたが変わらず、光の加減かと思って、手で日光を遮ってみても変わらず。。。
仕事でデジタル画像を取り扱っていますが、このようなぼけ方は今まで見たことがありません。このときはとりあえずCCDの劣化か何かだろうと思うことにしました。

日新館

白虎隊の学び屋 日新館も行って見ました。友人曰く、会津には昔からよく来てるけどこんな建物無かったなぁ。それもそのはず、調べてみたら1868年に戊辰戦争により校舎は焼失しており、残っていた物は展望台後のみだったそうです。それを1985年に火の手を免れた図面を元に総工費34億円を費やし復元をした施設です。

日新館は今で言う「国語・算数・理科(天文学)・社会」に加え、「弓道・砲術・剣術・柔術・馬術・潜水術・兵法」などを教わる防衛大学のような学校だったそうです。
現在は弓道場や道場は料金を払うことで借りることができる施設になっています。弓道や座禅、茶道、赤べこの絵付けなどが有料で体験できます。

今回の旅行の感想と後日談

今回、友人の奥寺さんと2泊3日で会津若松と二本松を周ってきました。二人で写真を撮っていると、「撮ってやるよ」と気さくに声を掛けていただいたり、スタッフ張りに一般の方が丁寧に案内していただいたり、福島の方々は本当に親切で、観光客を大切にしている県なんだなとほっこりしました。

二本松城と鶴ヶ城を周ってきましたが、両方とも素晴らしい立派な城で佇む姿は実に壮観でした。二つの城の石垣の積み方のコンセプトは異なるようですが、どちらとも内側に荷重が落ち込み合うように組まれているのは共通で、実に良くできているなと関心します。また、城で活躍していた二本松少年隊、白虎隊、新島八重のストーリーにも胸を打たれました。少年隊の錬度の高さ、白虎隊の武士としての精神、男尊女卑が当たり前だった時代に最新式の銃を持って戦った新島八重。そうだドラマ「八重の桜」のDVDを借りなければ。。

CCDの故障か劣化かと思われた黒いモヤがかかる現象ですが、帰宅後に試しに空を撮って見たところ、何も写らなくなっていました。

自分は信心深い方ではないのですが、このような現象が身に起こると相応の敬意を払わなければならないと思いました。

睡眠中が一番クリエイティブだと思う

夢とは不思議なもので、聴覚・感触・匂いなど、あたかも現実であるかのように物語を体験できる。
夢の根源は、覚醒時に経験した印象深い事や、抑圧された願望などから現れることが多く、それらが統合された”夢”は支離滅裂で不可解な物が多い。
しかし、ある程度ストーリーがしっかりしている夢もあり、なかなかに面白い。

この間、あまりにもよく出来た(起きた直後はそう思った)夢を見たので直ぐにメモをしてみた。
夢は時間が経つと忘れがちだが、寝起き直後にメモをしてみると、思いのほか夢の内容が文字起こしできる。
文字起こし中に頭が覚醒してきて途中から何じゃこりゃと思うこともあるが、一通り文字を起こし終わり改めて見てみると、やはり”なんじゃこりゃ”である。
しかし、ちょっと工夫をすれば、これを元に何か創作が出来そうな気もしないこともない。
小説家:ブラム・ストーカーは、カニの食べすぎによる悪夢を元に「ドラキュラ」を書き上げている。

自分は現実ではどう頭を捻ったとしても”夢”のような物語はひねり出せないし、物語を創作する意欲もさらさら無い。
人の思考は覚醒時は理性によってコントロールされているが、睡眠中は理性に邪魔をされない。
そのため、覚醒時には考えも付かない常識ハズレな創作を行うことができるのではないかと思う。しかも自動的に。

そう考えると、自分は寝ている間が一番クリエイティブな活動をしていると考えられる。
夢を夢に留めていたらそれまでであるが、これを何らかの方法でアウトプットをしていけば、現実的なクリエイティブな活動に繋がるのではないかと思う。